時間稼ぎのワトソンと残された者達
「こないで!! お父さんが死んで、私はもう……!」
「落ち着きなって。大丈夫。先生が解決してくれるからさ」
「……っ!」
高層タワーマンションの最上階。
まさか、飛び降りようとするとは……。
これは流石に初めてのパターンだ。
いや、文句を言っても始まらないな。
時間稼ぎは俺の仕事だ。
輪島は思考を加速させた。
今日は、
どうやってそんな場所にコンタクトをとれたかは謎だが、先生のことだから何かしらあるんだろう。
華やかなパーティも終わりが差し掛かったころだった。
案の定、犠牲者が出た。
このパーティの主催者の男性がマンションから落下したのだ。
それも、誰もいないはずの隣の部屋のベランダから。
その後は、いつも通りだ。
警察を呼んで、関係者達を一か所に集めて、俺が彼らを
「さ、ここにお集まりの皆さん。私の話を聞いて……」
先生の推理が始まろうとした時に、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「おやおや、観客のご到着ですね。ワトソン君、案内してあげなさい」
恐らく警察が到着したのだろう。
俺が椅子から立ち上がろうとしたとき、俺より先に立ち上がった人物がいた。
確か、被害者の娘だ。
彼女が警察を案内してくれるのだろうか、と思った矢先だった。
彼女は思いがけない行動をとった。
立ち上がった勢いそのままに、ベランダへ飛び出したのだ。
だが、俺も反射的に身体が動いていた。
彼女によって開け放たれた引き違い窓の左側を通過して、ベランダの右奥まで移動した彼女と対峙する。
その時には、既に彼女はベランダの柵を掴んでいた。
――――まずは雑音と他人の視線を打ち切ろう。
俺は窓を素早く閉めて、一度軽くノックする。
これだけで先生には伝わるはずだ、
ほどなくして、部屋の中からカーテンが閉められた。
よし、これでいい。
他人の視線はいつだって、人の正直さを失わせる。
月明りが俺と彼女を照らす。
距離は大体2~3
飛び掛かれば掴めない距離でもないが……衝動的に飛び降りられるリスクが高い。
彼女はというと、瞬時に俺と二人きりの空間が出来たことに呆気にとられているようだ。
これで準備完了だ。
ここで自殺を思い直させる。最低でも、警察が下の階で待機出来るまで時間を稼ぐ。
「急にどうしたんだい。ええと……
彼女の名前は『森
被害者の一人娘で、高校2年生。
最近、私と口を聞いてくれなくて……と被害者がパーティでぼやいていたのを覚えている。
一人親だからコミュニケーションが取れてないのが心配とも言っていた。
本当はここまで覚えているのだが、敢えて質問にする。
彼女からの返事はない。
だが目線はこちらに合っている。
聞こえていないわけではなさそうだ。
それなら――――。
「俺の名前は輪島
まずは、彼女自身が消化しきれていない彼女の激情を見過ごさせる。
そのためには、俺が
「そこ、寒いよね?」
「俺の言葉、聞こえてるかな?」
『
例えば、アンケートが分かりやすいだろう。
男・女、はい・いいえ……回答が容易で無意識にでも答えられる質問。
閉じた質問は、質問者に主導権を与えて、回答者に反撃を許さない。
俺が放つ連続した閉じた質問は、確実に彼女を受け身に回らせていた。
輪島は彼女の右足から力が抜けるのを見逃さなかった。
今度は、意識した思考が必要な『
「事情は知らないけど……森さんはどうして飛び降りようとしたの?」
「あっ……」
彼女は飛び降りるという単語に反応して下を見たのだろう。
恐怖で身を縮こまらせている。
さながらヤモリのように柵に張り付いてしまった。
そう、この柵を乗り越えるほどの激情を維持できなかったのだ。
「大丈夫だよ。森さん。ほら、ゆっくりでいいから……右足から、ね」
スマートフォンのライトをオンにして、彼女の足元をスポットライトのように照らす。
これで彼女の視界からは、光で照らされた足元しか見えなくなるはずだ。
もう彼女の選択肢は、そこに足を伸ばす以外無くなったのだ。
床に足をしっかりと着けた彼女は腰が抜けたのかその場で崩れ落ちた。
ベランダに響く荒い呼吸が彼女の混乱を物語っていた。
とりあえずは、これで一安心だ。
俺はその場で座り、窓ガラスに寄りかかって、軽くノック。
カーテンの隙間から顔を覗かせた先生にOKとハンドサインで伝える。
満面の笑みでカーテンを開けようとする先生だが……俺はそれを手で制した。
もう一つだけやることがある。
激情というものは長続きしない。
この柵を乗り越えるなど、根源的な恐怖を超えるほどの激情が無ければ本来不可能なことだ。
……それじゃあ、行き場を失ったその激情はどこに行くのか。
正しく処理できなかった感情は心の底に
そして間違いなく今後の人生に悪影響を与える。
そう、俺のように。
だから、今からやることは、同じ苦しみを味わった先輩としての――――ただのお節介だ。
「もう一度聞くね。森さんは、どうして飛び降りようとしたの?」
「それ……は……」
犯行に関わっていたとか、事件の真相を知っていたとか、ただのパニックだったとかそんなのは俺に分からないし、どうでもいい。
ただ、彼女の父親が何らかの引き金になったのは確かだ。
「質問を変えるね。お父さんのことかな?」
「……うん」
「お父さんが亡くなったから、森さんは、自分でここから飛び降りようとしたの?」
「……」
この質問には答えられないことは分かっている。
なぜなら、結局彼女は飛び降りずに今こうして、ここにいるからだ。
彼女自身の意思と結果が一致していない。
全てが自分の意思でないのなら……。
「じゃあ、お父さんのせいなのかな?」
「……せいってわけじゃ……」
悲痛な顔をする彼女とパーティで話した彼女の父親の様子を思い出す。
やはりこれは……。
輪島は彼女の顔をスマートフォンで写真にとった。
「え?」
そしてその写真をすぐに彼女の目の前に突き出す。
「森さん、今、こんな表情をしてる君を見て、お父さんは死んでほしいって言うかな?」
「……! 言わ……ない……」
「そうだよね。お父さんは君のことを死んでほしいなんて言わない。じゃあ、なんて言うと思う?」
「……『どうしたんだ? めぐ、何があった?』って必死に……」
そこまで言って、彼女は決壊した。
そして慟哭しながら、俺に許しを乞うように語りかける。
「昔、私、見ちゃったの……! お父さんが……! でも、私は……!」
俺は、今回の事件に繋がる過去の親子の罪を聞き続けた。
彼女を
これは、理不尽に残されてしまった者達に必要な『儀式』だ。
窓ガラスの向こうからは、楽し気な男の声が漏れ聞こえてくる。
俺達の安全が分かったからだろう。
待ちきれなかったのか、歩夢先生の推理劇場が既に始まっていた。
どこまでも軽やかにトリックを語り、おどけたように揺さぶりをかけ、満足気に犯人を指名する。
この時ばかりは……先生の声が憎かった。
光満ちる部屋で響く高らかな声とほのかな月明りの下で吐き出される悲しい声。
同じ死を語っているとは思えないステレオを聞きながら、この事件は幕を閉じた。
「……聞いてますか? ワトソン君。なんですか、今日はやけに不機嫌じゃないですか?」
「……別に」
実際には、昔の事件と昔の自分を思い出して気分が悪くなっていたが、それは口に出さなかった。
「しかし……今回の被害者は災難でしたね。まさか逆恨みで殺されてしまうとは」
「……え?」
それは違う。
俺が森さんに聞いたこの事件のあらましは……決して逆恨みなんて言葉では表現できないものだった。
「どうしたんですか? ワトソン君」
俺は今まで、この『ホームズ』を絶対的な存在だと思っていた。
時間さえかければ、犯人やトリックはもちろん動機さえも言い当ててきたからだ。
だが、今回は……動機を明らかに間違えている……?
「いや、確かにトリックの割にはせこい事件でしたね」
「そうでしょうそうでしょう! これだから人間は……」
俺は動揺を隠すように返答を濁した。
このホームズは、本当に信頼してよい人物なのだろうか。
それを判断するには……まだ時間が必要だ。
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