第三話 本気の口付け
夕食時、
日を追う
「ねぇ、
ソファーに座り、濡れた髪を乾かしてやった直後、寄り掛かってきた頭を撫でつつ
「俺に嫌われるような事はしないんだろ?一応あんたのこと信用してるし。」
「またそんなズルい言い方をして…。さっさと僕無しじゃ生きていけなくなれば良いんだよ。そしたら……」
―――気絶するまでぶち犯してやるのに。
「そしたら?」
「あ、いや。こんな通い妻は卒業して、一緒に住むのもアリなのかなぁと思ってね。」
「ふぅん。物好きなやつ。」
今だ
「こら、こんなところで寝ない。眠いならベッドに行かなきゃ。」
「んぅ…。そーしたら、あんた帰るんだろ?……ここでいい。」
甘えたい気分なのは、たった今まで飲んでいた缶チューハイのせい。アルコールに弱い
「そうやって僕のこと煽るのやめてもらえるかな。ほら掴まって、連れてってあげるから。」
「ここでいいつってんの!そんなに帰りたいんなら勝手に帰ればいいだろ…」
言いながらずりずりと膝枕へ移行すると、言葉とは裏腹にしっかりとズボンを掴む。
「帰らないよ。一人が寂しくて、あまり眠れてないんでしょ?…目の下、クマになってる。」
「うっさい、ヘンタイしつじ…」
いつもは前髪で隠している目元を無防備に晒す
事実ここ数日、眠れない夜が続いていた。そんなこと、言われるまでも無く自覚していたから、どうにかしようとアルコールにも頼ってみたわけだが…
瞼を閉じても眠りにつくほんの手前を彷徨うばかりで、意識を手放すに至れない。
暫く経って
「もういい。…さっさと帰れよ。明日も仕事なんだろ。」
「はぁ…。そんな寂しくて死んじゃいそうな顔してるのに、ほっといて帰れると思う?強がりも遠慮も要らないから、どうして欲しいのか言ってごらん?」
強がってはいるし、遠慮もしていた。けれど、それが不要と言われたところで
覗き込む
「わかった。なら一つ提案なんだけど。報酬前払いで、キミの我が儘に応えるってのはどうかな?」
「……ほうしゅう?」
恐る恐る視界の脇に捉えた
嫌な予感はするけれど、例えば報酬は後払いでと約束をしても、
自分に嫌われては困るのだから、そんなにハードルの高い要求はしないはず。だったら、その内容だけでも聞いてみようと
「何すればいいんだよ…」
「んー?…キ、ス。」
腰を屈めて耳元に唇を寄せ、吐息混じりに答える。
「っん…。耳に息かけんな!てか、何であんたとキスなんか…」
膝に頬杖を突き、空いた右手で優しく頭を撫でる
「良いんだよ?別に断ったって。無理強いはしない。と言うか…、キスの一つもしてもらえないんじゃ、まだ暫くは望み薄だしね。言われた通り大人しく帰るよ。」
「え……。や、やだ!待って!」
見事に
どうして良いのかわからず、涙をいっぱいに溜めた瞳が揺れている。
「あぁ、ごめんね。冗談だよ。キミが納得するまではここにいるから、そんな顔しないで。」
掛ける言葉とは裏腹、
「キス、するから。…すてなぃ、で…。
「っ!……っはぁぁ…。わかってはいたけど、思った以上に堪えるな…」
胸元に擦り付き自分では無い男の名を呼ぶ。
女も男も、求められるがままに抱けば勝手に満たされ溺れていく。それが常だったから、実際そこに恋愛感情が在ったのかすら、正直わからなくなっていた。
一方的な好意を相手に、淡々と性処理しているだけで、本当は恋愛なんて一つも成立していないんじゃないか。そんな風に思いながら送る日々の途中、
毎日毎日、飽きもせず同じ場所に居て、いつ見ても顔色が悪く無気力。ただ時折覗く顔は儚げで驚く程に美しく、興味はひたすらに募っていく。
欲しければナンパでもして、いつものように身体で溺れさせてしまえばいい。だが、
彼の
経験したことの無い不安が込み上げ、何の手出しもできぬままに日々が過ぎていく。
一目惚れを自覚したのは、
夕刻、公園を去って行く後ろ姿を衝動的に
刺激的な恋愛ができそうだから。なんてのは、これまでマトモに恋愛をしてこなかった自分への言い訳。
自分に向けた視線が落胆に変わり、俯く姿を見たあの日から……
心が、
暇があれば
完全にストーカーの所業。けれど全ては、
異常な行動力に反し、本人には声の一つも掛けられず臆病になっている自分を見つめ、本気で恋をしたのだと悟った。
強めの性欲も加虐心も抑え、いつか自分の元へ落ちて来ればいいと健気に尽くすも、一向に消えぬ
「たった二缶でこんなに酔って…、絶対に一人では飲ませられないね。」
「ごめ…なさい、ふ…っく。ひとりに、しな……で、くださぃ…」
去って尚、二年以上も
肘を突いて身体を起こすと、膝に跨り口元を見上げてくる
薄く開いた口に舌を捩じ込み口内で逃げる舌に絡ませれば、
「ん…ぅ、ヌチュ……んぁ。っふ、クチュ…っん」
徐々に激しく、息苦しさから逃れようと突っ張る腕も無視して、満遍なく口内を舐め回し愛撫する。互いに混ざり合い、飲み込む余裕も無く溢れた唾液は顎を伝い滴った。
呼吸も奪う、長い長い口付け―――
やがて一切の抵抗をしなくなった
「っはぁ…はぁ…、ふ、…っは…はぁ……っ」
少しばかり息を乱す
まだ酔って
「このまま眠るといいよ。キミが目を覚ますまで、ずっとこうしていてあげるからね…」
ぽんぽんと子供を寝かしつけるように背を叩けば、緩やかに
そのまま意識を手放して、
「…すみません、明日は出勤できると思いますので。
カーテンの隙間から朝日が差し込む。
いつの間にか自室のベッドに居て
昨夜の記憶が無い……わけでは無い。所々あやふやではあるが、恐らく大半は覚えている。
無様に泣いて
目を覚ましたことを
「ぉ…おはよ……」
意を決し小さな声で言うと、
「おはよう。ごめんね、うるさくして。今日は休みを取ったから、まだ抱き枕にしていてくれて構わないんだよ?」
「さっきのって、仕事の…。」
「風邪をひいたって嘘ついちゃった。報酬、もらったしね。今日は
再び、キスをされた時のことが
酔っていたせいかも知れないけれど、あの瞬間は寂しいなんて一つも思わなかった。舌を入れられたのも全然嫌じゃなかったし、強引なのにめちゃくちゃ優しかったし…
何より、脳が痺れるほど気持ちよかった。
当然、キスは初めてでは無い。あの人と交わした、唯一のそれらしい行為。
けれど、
「大丈夫?耳まで真っ赤だよ。」
意地悪く笑いながら、その耳を舐め唇で
「やっ…やめろ!変態っ!」
我に返って暴れベッドから抜け出せば、起き上がった
「少しは僕の気持ちが伝わったのかな?やっと意識してくれたみたいで嬉しいよ。」
「別に!意識とか……」
カーテンを開けて部屋に光を取り込み、布団を丁寧に整えると、床に置いていたぬいぐるみ達を元通りベッドの上に並べた。
「シャワー借りてもいい?昨日は仕事上がりにそのまま来たからね。流石に汗臭いでしょ?」
自分のシャツを嗅ぐ仕草。肩を
部屋を片付ける様子をただ呆然と眺めていた
「へ?すげぇいい匂いだった、け…ど」
「へぇ~、なるほどねぇ。通りで、寝ている間もあんなに擦り付いて来たわけだ。」
完全に失言だ。弄るネタを自ら与えてしまい、うさぎのぬいぐるみを盾に距離を取る。
が、警戒も
「んー、着替えも借りられないかな?あと、洗濯機も。他に洗うものがあれば、一緒にやっておくよ。」
「着替え…なら、兄さんのが。あ、下着も新しいのがあるから持ってく。」
「ん、ありがとう。じゃ、ちょっと行ってくるね。済んだら朝食にしよう。」
軽く頭を撫でて、
隣の部屋に入ると、兄が残していった服の中から
朝を迎えても家に一人きりで無いというのは何とも不思議な感覚で、浴室の折れ戸の向こう、シャワーを浴びるシルエットを
昨夜眠りについてから一度も途中で覚醒せず朝を迎えた顔はいつに無くスッキリして見え、鏡の中で微笑む自分に気付き目を逸らした。
「今日……ずっと居んのかな…」
昼過ぎにはいつも公園へ向かい、あの人が仕事から帰って来ていた夕刻までを同じ場所で過ごす。
自分を気遣い傍に居ることくらい理解している。それを早々に追い出すのもおかしな話だし、自分に好意を持つと知りながら公園へ連れて行くなど流石にできない。
「あ。そういや、今日って日曜か。」
公園へ向かうのは毎日のことで、これまで曜日など気にもしなかったのに。日曜を理由にして
「どうせなら、どっか遊びに行きたいな…」
気の合う友達と出かけたい、ただその程度のこと。それは昨夜のキスは思いが伝わるくらいには濃厚だったけれど、だからと言って急に恋愛対象として意識するなど絶対に有り得ない。
ドキドキするのは
―――帰って、来んのかな…
シャワー音が止まり、ドアの向こうで
慌ててリビングへ行きカーテンを開けると、ソファーに沈みクッションを抱えた。
いったい何を慌てているのか。何をそんなに意識しているのか。別に昨日までと関係は変わらないはず、ただキスをされたってだけで…。
「キス…。またしてくれないかな。」
「はぁ~、さっぱりした。」
呟きと重なった
「服のサイズピッタリだよ。
どうやら聞こえてはいなかったのだろう。上は袖無しのインナーシャツ、下は細身のパンツを纏い、長い髪をタオルで拭いながら
水も滴るいい男とは
「えっと。たぶん同じくらい。やるって言って結構置いてったんだけど、サイズ合わないから。セーターとかラフなやつしか着てなくて。」
「そっか。今のところ持ち主がいないのなら、次泊まる時にも借りて構わない?」
「え?あぁ、うん。…てか、また抱き枕にでもなる気なのか?」
「どうしてそう期待させるようなこと言うかな。まぁ、僕に抱きついて眠りたいのなら遠慮無くどうぞ?いつでも歓迎するよ♪」
「フフッ、照れてるついでにもう一つ。そんなに僕のキスが気に入った?…ねぇ、もっとして欲しい?」
―――思いっきり聞かれてた…っ!
本当のところ、自分でも何故あんなことを呟いたのかわからない。
寂しさを紛らわすことができたから?優しさが心地良かったから?酒に酔うよりもずっと気持ち良かったから?どれも
「別にそんなの望んで無いし。だいたい!あんたは友達だろ!」
「でも、して欲しいとは思ったんでしょ?難しいことは考えなくて良いから、欲しいなら欲しいって素直に言ってごらん?」
「そっ、そんなの言うわけないだろ!」
「どうして?衝動的に何か食べたいとか、何処かに行きたいとか思うことあるでしょう?それと同じ。求められる側の僕が受け入れているんだから、思ったらそのまま言っちゃえばいいんだよ。」
気付けば頭の中は、ずっとあのキスのことばかり。
「ま…毎日、帰る前に……キス、して欲しい。そしたら、多分…ちゃんと眠れると思うし。」
せめてもの言い訳に付け加えて、抱いたクッションに顔を埋めた。
―――ヤバい。ここ最近で一番キた。
恥ずかしがる表情、躊躇いがちに震える声、その上毎日欲しいなどと
「わかった、そうするよ。あ、髪を乾かしてくるね。もう少しだけ待ってて。」
「ぁ、……うん。」
禁欲の日々も
―――はぁ…ほんっと、めちゃくちゃに抱きたい。
今回ばかりは己の強すぎる性欲が恨めしい。無理矢理犯すなど死んでも許されないのに、無駄にテクニックがあるせいで
トイレに入ると便器の蓋に書かれた注意書きをじっくりと読み、無心で
髪を乾かし後ろで一つに結べば、
いつも通り頼れる男でありながら少しばかり意地悪な表側を固め、
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