第49話 弱さを超える愛もある(第6部 完)
もしかしたら、初めて見る光景だったかもしれない。あの師匠が怯えている。掴まれた自分の細い足首を見下ろす瞳は、小さく震えているようだった。
「ケン……助けておくれ」
本物の幼女のように、涙目になりながら俺に助けを求めてきた。凄まじい違和感と共に、同じくらいの微笑ましさが俺の感情をかき乱していった。
「瀬戸、やめろ。怯えてるぞ」
寝転がったままの額に、軽く手刀をぶつける。瀬戸は「あう」と声を漏らし、師匠の足を解放した。
「た、助かったぞケン。何じゃこの子は」
「さっき説明したとおり、瀬戸です」
「はい、瀬戸 由佳です」
瀬戸は体を起こし、その場に正座した。表情は真剣そのものだ。こいつはいつも真面目なのだ。あくまでも、こいつなりの真面目さだけど。
「そのセトユカが、わしに何の用じゃ?」
「私を、弟子にしてください」
「は? 弟子じゃと?」
こんなにドン引きする師匠も初めて見た。俺の知らない顔を引き出せるなんて、瀬戸は恐ろしい子だ。
「実は私、あなた様、流れる麗しの……」
「待て瀬戸」
「その名で呼ぶなぁ!」
俺の静止は間に合わなかった。助走をつけた小さな拳が、瀬戸の頬に突き刺さった。多少の理性が残っていたようで、魔力は使っていない。力だけならば幼女そのものなので、痛くはなさそうだ。
「な、な……」
ただし、瀬戸は激しく混乱をしていた。いきなり殴られては、そうもなるだろう。
「恥ずかしいから! それ、かっこ悪くて恥ずかしいから! やめるのじゃ!」
「か、かっこ悪い? そんなことはないかと……」
「いいから、ちょっとわしの話を聞け!」
「あ、はい……」
その後師匠は、正座したままの瀬戸に向かい懇々と説教を始めた。その内容は、主に四つ。
「そんなダサい二つ名を考えたやつは誰じゃ」
「日本語訳した者はせめて音読みにできなかったのか」
「本人に無許可で組織を作るな」
「恥ずかしいから、頼むからやめておくれ」
師匠の言葉を聞く瀬戸は、顔を真っ青にして滝のような汗をかいている。これまでの信仰が本人により完璧に否定されているのだ。なかなか辛いと想像できる。いくら瀬戸でも、これは哀れに思えてきた。
「あー、師匠、それくらいに」
「だめじゃ。しっかりわかってもらわんと、これからに響く」
小さな体の前で小さく腕を組んで、師匠は鼻息を吹き出した。瀬戸に乱された調子は、すっかり元のペースに戻っているようだ。
「これからって、なんです?」
「修行中に変な名前で呼ばれたら、たまらんからのう」
「修行中って、師匠、もしかして」
「そうじゃ、こいつを連れていく」
瀬戸のおでこを指でぐりぐりしながら、偉そうに宣言する。まぁ、偉い人なんだけども、とにかく偉そうだ。肝心の瀬戸は話に着いていけておらず、目を白黒させている。
「見たところ、見込みはあるのでな。ケンと同等か、もしかしたら、それ以上になるかもしれん。少なくともやる気はケンを遥かに上回っておるわ」
「あー、やる気だけは、確かに」
最後の言い分は特に納得感がある。瀬戸という子は、異様にポジティブで異様にエネルギッシュなのだ。そして、その異様さのきっかけは師匠だ。ならば、修行は必然的にやる気満々になるだろう。
大学で学んだ下地もある。しっかりと修行を積めば、あっという間に俺を追い抜いてしまうだろう。少し悔しくもあるが、仕方のないことだ。俺とこいつでは、動機はともかく真剣さが違う。動機はともかく。
「というわけでな、もらっていくぞ」
「はい、どうぞお好きに」
「由佳ちゃん、よかったね」
「えーと、つまり、どういうことでしょう?」
未だ状況の理解ができていない瀬戸を置いてきぼりに、師匠はどこからともなく取り出した携帯電話を耳に当てた。大抵のことは魔術でやってしまう人だけど、こういう文明の利器へも順次対応している。うん、便利だもんな。
「あー、わしじゃ。お主のところのセトユカという子な、ちょっと貸してくれ。詳しいことは後々話に行くからの。ああ、そうそう、気にするな。よろしく頼むよ」
師匠は一方的に話して通話を終え、満足気に電話をどこかへとしまった。そして、瀬戸の方を見てにっこりと笑う。
「よし、これで良いな」
「あのぅ、どちらに電話を?」
恐る恐るといった様子で、瀬戸が手を挙げて質問する。
「ああ、コヤマだったか? あの堅物の小僧じゃよ」
「小山って、日本支部長の、でしょうか?」
「うむ。セトユカを弟子にするなら、福利厚生とか、業務との両立とか、色々あるじゃろ。後から文句を言われないように、先に言っておいてやったぞ」
俺と瀬戸はぽかんと口を開けてしまった。明莉はよくわかっていないようだ。
こうも簡単に一国の支部長に話をつけてしまうとは、流石師匠というしかない。そして、相手の都合にも考慮するあたり、なんだかんだ気を遣っている。
「じゃあ、行くかの、セトユカ。説明はしてやるから安心せい」
「あ、え? ええええええ」
師匠は魔術を使い、正座したままの瀬戸を宙に浮かせる。有無を言わせず移動させるつもりだろう。俺もよくやられた。
「改めてにはなるが、ケン、アカリ、またな」
「はい、また」
「また来てね」
「え? ほんとに、弟子?」
一人を除いて、再会の約束をする。そして俺の大事な人は、よくわからん奴を連れてアパートのドアから去っていった。瀬戸の靴も忘れていなかったのは、ありがたい。
「行っちゃいましたね。良かったんですか?」
「ああ、良かったよ。本当に」
急に静かになると、妙にしんみりとした空気になってしまう。昨日と今日は、とにかく慌ただしかった。
黒影の正体や、師匠の気持ちを知った。たぶん俺一人では受け止めきれなかっただろう。明莉がいてくれたから、こんなにも穏やかな結末を迎えられることができた。いくら感謝しても、し足りない。
「明莉、ありがとう」
たくさんの言葉が頭の中を行き交ったが、口から出てきたのは簡単な一言だった。気持ちを全部口にするのは難しい。
「ふふ、大丈夫ですよ。ご褒美くれるなら、それで」
小さく微笑み、明莉は目を閉じ唇を突き出した。ああ、あの時の続きがご褒美か。それは、俺にとってもご褒美じゃないか。
「喜んで」
俺は明莉の肩を抱き、ゆっくりと唇を合わせた。柔らかい感触と、鼻をくすぐる匂いが心を満たしていく。明莉のことしか考えられなくなる。
お付き合いを始めた当初は『明莉の人生を確定させたくない』なんて考えて逃げていた。本音はそうではなく『明莉の人生を俺が確定させるのが怖かった』のだと思う。師匠の言葉を借りるのなら、俺も弱いということだろう。
でも、こんなにも愛しい相手に、俺の些細な弱さなど通用しなかった。今は、明莉の人生を確定させてしまいたい。俺のそばにずっといて欲しいと、心から思っている。
だから、言ってしまおう。
「俺と結婚を前提にお付き合いしてください」
唇を離した直後、俺は少し意地悪にその言葉を告げた。
第6部『あのお方が来る』 完
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