おじさん魔法使いと押しかけ女子大生 ~彼は恋を思い出し、彼女は再び恋をする~

日諸 畔(ひもろ ほとり)

第1部『それは出会いか再会か』

第1話 初対面で言うことではない

「私と結婚を前提にお付き合いしてください」


 目の前に座る女性は開口一番、とんでもないことを口走った。


「は?」


 俺は危うく手に持ったコーヒーカップを落としそうになる。なんとか持ち直し、辛うじて声を出した。


「え? なに?」

「ですから、私と結婚してください」

「さりげなく手順ひとつ飛んだね。お付き合いが飛んだね」

「私たちの間には些細なことです」

「あー、些細なんだ?」

「はい! それに私、つい先日誕生日だったので、もう十八歳なんです」


 なぜか自慢げに頷く姿は、あどけなさが残る。美少女と呼んでも差し支えないその容姿は、満面の笑みに彩られ輝いて見えた。

 

 そんな女の子が、なぜ結婚?

 初対面なのに?

 俺は大きくため息をついた。

 よくわからない子もいるもんだ。


 季節は春。

 三月に涙ながらの別れを経験した若者は、四月から新しい世界に踏み出していく。

 そんな季節だ。

 だが俺はもう三十六歳。見た目も中身も大したことのない、いわゆるおじさんである。こんな年齢になってしまうと、これといった変化もなく、いつもの日常が続いていくだけだ。


 代わり映えのしない生活を送っていた俺は、ほんの数分前の大失態を思い出した。


 ◆◇◆◇◆◇


 金曜日の夜。

 少しだけ残業をした帰り道、俺は繁華街の路地裏に連れ込まれていた。


「へっくし」


 花粉症との付き合いは、熟年夫婦のように長い。耳鼻科に行くのはめんどくさいので、薬局で薬を買って済ませている。

 なので、俺はあまりこの季節が好きではない。


 そしてもうひとつ。

 変化が多いこの季節は、人の心を惑わす。

 その証拠に……。


「おいおっさん、くしゃみしてる場合じゃねえよ。通りすがりにこっち睨んだだろ? あ?」


 ほらね。

 髪を黄色に染めた若い男が、俺の胸ぐらを掴んで一生懸命に凄みをきかせている。

 ダボダボのジャージを着ていて体型はよくわからないけど、一応は鍛えているみたいだ。連れ込まれた路地裏の壁に押し付けられている。あんまり鍛えてない俺は身動きが取れない。


「いや、君のことは特に見ていなかったけど」

「そんなことはどうでもいいんだよ。わかってるだろ?」


 さっきまでの怒り顔から一転、男はニヤニヤとし始めた。俺を御しやすいと判断したのだろう。それは概ね正しいと思う。

 身長は平均以下、最近お腹も出てきた冴えないメガネのおじさん。それが俺、里中さとなか 健司けんじだ。


「なんのことだい?」

「あ? ふざけんなよ!」


 男は顔を近付けると、さらに強く壁へと押し付けてくる。

 くたびれたスーツでも一応は一張羅だ。破かれたりしたら、それなりに迷惑だ。

 そろそろ出てきてくれてもいいものだけどな。あまり焦らされても困ってしまう。


「いいから金を出して俺にひれ伏おぼぼぼぼぼろらろ」


 本題を口にした時、男の口から黒いものが溢れ出した。液体でも個体でもない、黒い影のようなもの。

 そう、これを待っていた。

 俺たち魔法使いはこれを《黒影くろかげ》と呼ぶ。


 ネクタイの結び目を掴んでいた男の手を左手で掴み、軽くひねって外す。反対の右手は、白目をむく顔の前に掲げた。


「消えろ」


 右手に魔力を込め念じる。今回は小物だから、この程度で充分だ。

 掌が一瞬光った後、男の耳や鼻からも出つつあった黒影は霧散した。

 これで、ひと仕事終わりだ。

 崩れ落ちる男を支え、壁にもたれて座らせた。呼吸はしっかりしている。

 この様子なら、放っておいてもすぐに目を覚ますだろう。


 依頼人に完了報告しようと携帯電話を取り出した時、バタバタと大きな足音が聞こえた。


「警察呼びましたよ!」


 慌てたような大声と共に、小柄な女性が駆け込んできた。Tシャツとジーンズというシンプルな服装に、長い黒髪が印象的だった。

 暗がりでよく見えないが、少し高めの張りがある声をしている。恐らく年齢は若い。


「って、あれ?」


 想像した状況と違ったのか、女性は俺と倒れた男を交互に見つめ、首を傾げた。


「あれ? 逆でした?」

「え?」

「あ、警察呼んだのは嘘ですので」

「はぁ」


 突然の出来事に、返す言葉が思いつかなかった。

 それに、現場を見られずに済んだのは幸運だった。その場合の処置は得意ではない。


「えーと、大丈夫そうなので、私はこれで」

「ああ、どうも」


 女性は数歩後ずさりして、踵を返し駆け出した。

 俺が路地裏に連れていかれるのを見て、助けてくれようとしたのだろう。いい子もいるもんだ。

 ただし、こんな路地裏に一人で来るなんて、かなり危なっかしくも思えた。表通りに出るまでは、こっそり様子を見ておこう。


 と、その時だ。


「あががばばがばぁがはばばあああああ」


 足元に座り込む男の口から、祓ったはずの黒影が飛び出した。それは真っ直ぐに先程の女性に向かう。

 あれは、人に取り憑く。

 完全に俺のミスだ。油断していた。


「くそっ!」


 身体強化、周囲の時間遅延、空気の整流。三つの魔術を同時に発動させる。明日は頭痛と筋肉痛が確定だ。筋肉痛は明後日かもしれない。


「消えろ!」


 間に合った。

 俺は右手を振り下ろす。さっきと同じように一瞬だけ光り、黒影は消え去った。

 危なかった。女性に触れるギリギリの所だった。


「え? 何?」


 当然だが、祓う瞬間を見られてしまった。


『魔法使いの個人情報は秘匿しなければならない』


 免許証にも謳われている文言だ。

 もし関係者以外に正体を知られた場合は、魔術で記憶を操作しなければならない。それが非常に面倒で、さらに心苦しいのだ。

 しかし、見られてしまったからには仕方ない。ここで対応を怠れば免許取り消しの可能性もある。


「ごめんね」


 俺は顔をひきつらせる女性に掌を向ける。近くで見る顔は、想定していたよりも若くて可愛らしかった。さらに、小柄ながらに出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。つまり、凄いスタイルだ。

 俺が若かったら、たぶん一目惚れしていた。


 記憶操作の魔術は難しいものではない。何が嫌かって、消すものを選ぶために対象者の記憶を覗いてしまうことだ。

 全部は見ないように気を付けるが、見えてしまうものはどうにもならない。今回のように若い女性には特に気を遣う。


 すまないが機密保持のためだ。少しだけ頭の中を覗かせてもらおう。


 彼女の名前は山崎やまざき 明莉あかり。この四月から大学に通うため地元から出てきた。現在は一人暮らしをしている。

 大学で知り合った友人と夕食をとった帰り、悪そうな男に絡まれた哀れなおじさんを見つけてしまい、助けようと思った。

 そんな危険なことをするのは……。


 おっとダメだ。

 人様のプライバシーに土足で踏み込んではいけない。

 取り急ぎ、俺が関わっている新しい記憶を消去した。これでオーケー。

 あとは、さも偶然通りがかったような顔をして声をかければいい。


「あの、大丈夫ですか?」

「え?」


 山崎さんは大きくて丸い目をぱちくりしている。


「通りがかったところで、具合が悪そうにされていたので、声をかけました。大丈夫そうなら、私はこれで」

「はぁ」


 適当なセリフを吐いて、立ち去る。優しくて勇気のある子だが、二度と会うことはないだろう。


 って、思っていた。

 思っていたが、袖をがっちり掴まれていた。


「あの、もしかして、魔法使いさんですか?」

「いや、違います」

「私の記憶見ましたよね?」

「は?」

「とりあえず、そこのファミレス行きましょう」

「えー」


 俺は袖を掴まれたまま、ファミレスに連れ込まれた。

 そして爆弾発言へと続く。


 おじさん魔法使いとただの女子大生。

 俺と彼女の関係は、ここから始まった。

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