第2話モブ
「テメエ何してくれてんだ、コラァ‼」
ヤンキー漫画「獅子の牙」の主人公・真瀬 幸助に転生してしまった俺は今。
…不運なことに、通りすがりのヤンキーに、缶ジュースをぶちまけてしまっていた。
ちらりと、男のズボンに目をやる。
「…」
…なんということだろう。
跳ねてしまっている。オレンジ色の液体が。彼のズボンの裾に。盛大に。
目の前のリーゼントヤンキーの顔が、怒りでみるみる赤くなっていくのがわかった。
俺はスっと、落ちたアルミ缶と男のズボン、そして現実から、目を背ける。
ではここで、事の一部始終を…いや、言い訳をさせてもらおう。
俺がこっちの世界に転生してくる直前、俺の体、つまり原作の真瀬 幸助は手に缶ジュースを握っていたのだ。
そう、それはもう、大切に、大切に…握っていやがったのである。
そしてそんな時、突如別世界のヤツが憑依してきたら…お前らは、どうなると思う?
答えは簡単だろう。想像は難くない。
当然、筋肉は弛緩し、缶ジュースは地に転がるのだ。
そうして、缶の口から漏れたオレンジジュースは、逆らえない引力に従い、ヤンキーのズボンに美しい模様を映えさせるのだ。
まあ結論を言うと、俺は悪くない。
全ては、真瀬 幸助に缶ジュースを持たせていた、作者が悪いのだ。
だが無論、罰を受けるのは、現在この体の持ち主である俺な訳で。
母親から買ってもらったのであろう、お気に入りのズボンを汚された目の前の男は、鬼気迫る表情で、俺に顔を近づけてきた。
「テメエこれ、どうしてくれんだ!!あぁ!?」
「…」
「無視とか生意気な真似してんじゃねえぞ、ゴラ!!」
…さて、どうしたものか。
ヤンキーの口から吐き出されるタバコの匂いに顔をしかめながら、俺は考える。
俺には、ケンカの経験がほとんど無い。
そりゃあガキの頃は、菓子の奪い合いだの、なんだのと、くだらない理由で掴み合いのケンカをしたことはあるが、その程度だ。
毎日拳を突き合わせているヤツに勝てるほど、俺は強くない。
加えて、体格差もシャレにならなかった。
…目の前の男は、とにかくデカい。マジでデカい。
おまけにガタイも良いため、何故こんなヤツにジュースをぶっかけてしまったのかと、後悔したほどだ。
つまり殴り合いのケンカになれば、俺は確実に負ける…いや、死ぬという訳だ。
ならばここは、素直に謝っておくのが得策だろう。
…だが、思い出してみてほしい。
ヤンキー漫画でお決まりの、序盤で必ず不良モブにカツアゲされる、地味でひ弱な学生モブのことを。
アイツらは、卑屈になればなるほど、不良モブどもをつけあがらせている。
つまるところ、俺はここで頭を下げてはいけないのだ。
…では、どうするべきか。
答えは明白だ。
見栄を張る。
それしかない。
そう思い立った俺は、すぐさま、巨体の男の胸ぐらをガッと勢いよくつかみ寄せた。
「あ?」
俺の突然の行動に、男の片眉が釣り上がる。
「やんのか、ゴルァ?」
ケンカの意思があると見なされたのか、男は額をごつん、と俺のデコにぶつけてきた。
すりすり、と彼は威圧感するように、額を擦り付けてくる。
狭い俺のデコが、摩擦で熱を帯びていくのがわかった。
…やべぇ、めっちゃこえぇ。
流石に、掴みかかるのはまずかったかもしれない。
もっとこう、最強主人公的なノリの、聡明な弁論で対抗するべきだった。
…いや、大丈夫だ。
焦るな、恐れるな。
落ち着け、落ち着け。
俺だって、男だ。
自分で買う勇気はないが、友達からエロ本借りるくらい立派な男なんだ、俺は。
少し遠くの方では、流石マンガの世界、モブだが可愛らしい顔立ちの女子高生が、心配そうにこちらを伺っている。
ここでこのヤンキーをカッコよく撃退すれば、彼女は俺に見惚れてくれるかもしれない。
いや、そこまでいかずとも、男らしいところは見せつけることができるだろう。
たまたま視界に入ったモブ女子高生のおかげで、俺の勇気は、確固たるものになった。
「おい、聞いてんのか?」
ピキッと浮かんだ血管を鳴らしながら、リーゼント頭が、俺を覗き込んでくる。
顔芸か、とツッコミたくなるような表情だった。
その強面を見据えながら、俺は意を決して言い放つ。
「…オ、オマエ…フザケンナヨッ」
「…」
…沈黙。
俺の恥を際立たせるように、長い沈黙が俺たちの間を通り過ぎて行った。
…あぁ、死にたい。
ここに来て、まさか高校で克服したはずのコミュ障が、華麗に発揮されてしまうとは。
悲しすぎる。
心なしか、遠くの女子高生の表情も落胆しているように見えた。
「…」
先程まで俺を凄ませていたヤンキーは、今度は「うわあ…」とドン引きした顔を見せている。
…やめてくれ。
お前まで、俺を哀れまないでくれ。
お前も、男ならわかるだろう。
可愛い女の子にいい所をみせようとして、見事に自爆した、身を裂かれるようなこの俺の心情を。
戦意は喪失した。
もともと見栄を張るだけで、本気でケンカをしようなどとは考えてもいなかったのだが。
それでも万が一のためにと、俺は恐怖を押し殺してまで、自分の僅かな戦意を保持していたのだ。
だが、今ではそれもなくなった。
もう悔いはない。
…さあ、ヤンキーよ。思う存分、殴るがいい。
クリーニング代でも、命でも、なんでも譲ってやる。
もう俺は、この世に何の未練もない。
安らかに、黄泉の国に行くことができるだろう。
目をつむり、姿勢を但し、両手を広げる。
全てを諦めた俺は既に、一種の悟りを開いていた。
そんな俺を前に、男はさっきと打って変わって、引きつった表情を見せている。
だがしばらくすると、ヤンキーも気を取り直したのだろう。
ヒュンッと拳を振り上げる、風を切る音がした。
俺は笑顔を浮かべる。
…あぁこれでやっと、この生き恥を精算することができる。
恐らくかなり痛いだろうが、この際、できるならさっきまでの記憶も消し飛ばしてもらいたい。
俺の眼前に、拳が迫ってきた時だった。
-バキリ、と。
凄まじい蹴りが、男の首に入ったのは。
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