大人になろうとする君へ

紫 繭

プロローグ

 息を呑む。

 満点の星空が僕らの視界を覆いつくしてしまっている。かすかに風に靡くすすき野の草花。ぽつんと佇む三日月。

 その中に、僕と彼女だけが座っている。

 彼女がゆっくりと言葉を紡いだ。

「いつまでも、こうしていられたら良いのにね」

 ゆっくりとこちらに向き直る。その眼に、色は宿っていない。ただ、夜の色に埋め尽くされている。

 頷ける。それが叶うならば、きっと楽しい。

 しかし、僕は頷かなかった。

「それは、無理だ」

 自嘲気味に、俯きながら、僕は言った。

 彼女の表情は見えない。

「僕らは大人になる。大学の授業に出なきゃいけないし、バイトもしなきゃいけない。もしかしたら、大学院に行くかもしれないし、そのうち、どこかの会社で働く必要もある」

 分かってる。

 彼女がそんなことを言いたかった訳じゃないことぐらい。

 だけど、僕には嘘でも欺瞞でも紛い物でも、なんでもいいから取り繕う。そんなひどく簡単なことができなかった。

 顔を上げる。彼女の表情を見るためだ。

 見たくはなかった。

 不機嫌になっていてもおかしくない。泣いているかもしれない。でも、僕の下らない意地を張った結果を見ないわけにはいかなかった。

 僕の言葉に、彼女は笑っていた。目尻が締まった、何かを堪えた笑みだった。

 なじってくれればどれほど良かったか。泣いてくれればどれほど分かりやすかったか。


 彼女は、何も言わなかった。


 あの時を思い出す度、彼女の笑みが残影として僕に語り掛けてくる。

 彼女の笑みは今でも怖いまま。

 何も分かることなく、ただ時が流れる。

 やがて、僕らは大人になるのだろう。

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