第7話 この世界のオスマンの歴史
1911年 リビアをイタリアに取られる。
1914年 第一次世界大戦が発生 大戦にオスマン帝国は参戦
1915年 ロシア帝国をドイツ帝国が破壊、これによりオスマン帝国は負担が軽減。
1916年 フランスがベルギーに宣戦布告、これにイギリスが参戦して、エジプト方面の負担が軽減した。
1917年 エジプトを通って、リビアへ侵攻。
1918年 イタリアが単独講和、オスマン帝国はリビアを取り戻す。
1920年 バッキンガム条約が成立、オスマン帝国は賠償金とリビアの統治権の正当性ができた。
1921年 オスマン帝国の英雄ムスタファ・ケマルは、第一次世界大戦での活躍により、オスマン帝国第36代皇帝メフメト6世から宰相になるように勅令が出て、ムスタファ・ケマルは宰相になることを決意、戦争に勝っても崩壊しつつあるオスマン帝国を建て直すを決める。(その後ムスタファ・ケマルは病気で引退する1936年まで宰相の座に君臨し、亡くなる1946年までオスマン帝国の政治に多大なる影響力を持った。
1922年 日本にオスマン帝国の青年将校と希望した兵士が日本の大学と陸軍大学校へ留学していった。(1924年に陸軍大学校は海軍大学校と合併して「帝国国防大学」へ変わった)
その間にムスタファ・ケマルは憲法改正を行い、立憲民主制を加速させ、皇帝はオスマン帝国の国家元首にして象徴となった。
1923年 外国から借金を日本が肩代わり、日本は中東で石油資源の独占を勝ち取り、新しい市場開拓で、関東大震災で起きた経済の低迷を吹き飛ばすぐらい利益を勝ち取った。
日本が現地住民に仕事を与えて、利益を配ったことにより(多くは福祉と教育へ使われた)親日が大幅に増え、これが後に同盟締結までに影響して、親日国の中で最もズッ友と呼ばれた。(日本がやる事に説明が無かろうが賛成を貫き通すぐらいオスマン帝国は日本が大好きとなった)
ムスタファ・ケマルも日本が好きになり、日本の首脳と会談したり、天皇陛下に会ったりと、暇があるときは日本に遊びに行く親戚のおじさんと化していた。
1924年 日本で憲法改正が行われて、新しい政治を行っているとき、オスマン帝国は日本に習って、どんどん資金を公共事業と民間企業に支援を行い、日系企業にはどんどん市場拡大をさせるため支援を惜しまなかった。これにより経済状況は好景気に突入して、好景気から出た資金をどんどん公共事業と民間企業、日系企業に送っていった。(これのおかげでオスマン帝国国民の生活が豊かになり、帝国への不満は大幅に減って、親日も増えて、オスマン帝国はあらゆるところからどんどん変わっていった)
1925年 アメリカ経済が吹っ飛んだ影響でアメリカ系企業がオスマン帝国から撤退、空いたところに日系企業が進出していった。(ドイツ系企業も進出)
1926年 メフメト6世が亡くなって、アブデュルメジト2世が第37代皇帝に即位した。アブデュルメジト2世は政治に興味が無く、政治に関しては全てムスタファ・ケマル宰相に任せて、アブデュルメジト2世は宰相に「カリフとして仕事するから皇帝の仕事は少なくして」といい、宰相の仕事はどんどん増えてしまった。これにムスタファ・ケマルは仕事の効率化を行い、他の大臣の仕事と官僚の仕事を増やし、宰相の仕事を減らすことに成功した。
1927年 オスマン帝国国内のトルコ人増加政策(他民族同化政策)は成功をし、オスマン帝国人口の80%がトルコ人となり、多数民族として確固たる地位を持った。(他の少数民族はトルコ語を学び、トルコ人になろうと頑張った)
1930年 近代化を進め、オスマン帝国は瀕死の病人から復活した地域大国へ再進化した。
オスマン帝国(オスマン・トルコ帝国)の国力と諸々の説明
帝都 イスタンブール
国家元首 アブデュルメジト2世
宰相 ムスタファ・ケマル
政体 権威民主主義(立憲君主制)
経済状態 好景気
国民感情 Yaşasın İmparator(/・ω・)/
民族 トルコ民族 他民族(同化中)
言語 トルコ語(オスマン帝国国内)英語(世界共通言語)
宗教 イスラム教(国教)(政治介入禁止)
人口 3000万人(急激な人口爆発)
常備軍 50万人
限界動員数 250万人
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