第5話 図書室と大陸の地図

 危うげなく歩けるようになると、今度はポテポテと廊下を走りまわる。

 走るといっても、幼児の走りだ。

 早くはないし、距離も短い。

 私について歩くミーサも、余裕の表情をしていた。

 

「お嬢さま、廊下を走るだなんて、淑女らしくありませんよー」


「あーい」


 適当な返事はするが、走るのはやめない。

 これも今の私にできる数少ない運動のひとつなのだ。

 

 ……それにしても。

 

 広い家だな、と改めて思う。

 転生は何度となくしてきたが、乳母ナニー子守ナースメイドを付けられる家に生まれたのは初めてだ。

 子守メイドは私に魔法を使う才能がある、ということで父があとから付けたが、乳母は最初からいた。

 

 貴族の家とは、そういうものらしい。

 

 赤子は乳母を雇って育て、母親はほとんど赤子の世話をしない。

 家格というよりも、これは各家の経済状況によるものらしい。

 我が家も乳母がいるため、母の顔は父の顔以上に見たことがない。

 

 ……生きてはいるんだけどね。

 

 産褥が祟ってそのまま――なんてことはなかった。

 とりあえず、私の母については。

 

 それなのに、私は母の顔をまだ覚えていない。

 会った回数が圧倒的に少ないのだ。

 

 私が生まれた直後は、やはり産後ということで寝室で休んでいたそうなのだが。

 体の癒えた母は、早々に領地へと戻ってしまった。

 乳母に抱かれて別れ際に見送りはしたが、それだけだ。

 ぼんやりとした輪郭と、黒に近い紺色の髪をしていたというぐらいしか記憶にない。

 ただ、私への呼びかけは優しい響きをしていたので、嫌われているだとか、赤ん坊が苦手だとか、そういった感情はなさそうだった。

 単純に、今生の貴族の子育て方法が、こういうものだったのだろう。

 

「ほちゃ!」


 ほりゃ、と掛け声をあげたかったのだが。

 幼児の口からもれた言葉は、どこか間が抜けていた。

 

 こっそりと足に筋力強化の魔法を使い、ドアノブの前でジャンプをする。

 普通であればまだ手が届かない高さにあるドアノブも、魔法を使ったジャンプでなら掴むことができた。

 

「あー、お嬢さまっ!」


 その部屋はダメです、と少し後ろについてきていたミーサが慌てて駆け寄ってくる。

 幼児のぶら下がった扉は、少しだけ軋んだ音を立てると外向きに開いた。

 すぐミーサに肩を捕まえられたため、部屋の中へ入ることはできなかったが、扉の向こうは書斎か図書室だ。

 本の詰まった本棚が、開いた扉の隙間から見えた。

 

「お嬢さまに図書室はまだ早いですよー。むずかしいご本がいっぱいのお部屋です」


 メッと腰に手を当て、ミーサが怒った顔を作る。

 まったく怖くはなかったが、怒られているので、一応はしゅんとした仕草で俯いてみせた。

 ミーサは子守として当然の仕事をしているのだ。

 本物の幼児のように、わがままを言って困らせるわけにはいかない。

 

 ……赤ん坊に本とか、触らせるの怖いしね?

 

 日本での人生では、私には弟と妹がいた。

 弟妹がいるだなんて初めての体験に、嬉しくなって母から贈られたお気に入りの絵本を貸してあげたのだが、絵本は赤ん坊の手によって一瞬で破壊されてしまった。

 赤ん坊という小さなモンスターにとって、私の宝物はただの紙でしかなかったのだ。

 

 ……あれ以来学んだよ。赤ちゃんに大切なものを持たせたらダメ、って。

 

 今生での本の価値はまだ判らなかったが、それでも赤ん坊が玩具にしていい物ではないだろう。

 それは解るので、ミーサの注意は素直に聞いた。

 

 ……まあ、がっかりはしたから、拗ねはするけどね。

 

 ぷくっと頬を膨らませて、ミーサの腰へと抱きつく。

 あとはもう梃子でも動かないぞ、と力いっぱいミーサに抱きついていると、私が聞き分けはしたが拗ねている、とミーサも判ったのだろう。

 くすくすと笑う声がしたかと思ったら、いい子、いい子と頭を撫でられた。







 ……表向きは諦めたけどね。

 

 赤ん坊に本を触らせることに不安があるのは解る。

 解るので、私も昼間は素直に図書室を諦めて見せた。

 しかし、だからと言って本当に図書室を諦めたわけではない。

 この私はただの赤ん坊ではない。

 魔法が使える、前世の記憶があったりする、ちょっと他所の赤ん坊とは違った赤ん坊なのだ。

 

 ……お昼寝はばっちり、夜寝もばっちり。今の私に眠気はナイナイよ!

 

 深夜、といっても、実際には日付が変わった頃ではないだろうか。

 ベビーベッドの柵を乗り越えて、魔法で物音を消して移動する。

 このあたりはマーサに気付かれないよう練習した魔法の成果だ。

 極普通(?)の赤ん坊なのに、隠密行動に特化した魔法に精通しつつある。

 

 ……これは、お宝のよっかーん!

 

 無駄に巧みに魔法を駆使し、図書室への侵入を果たす。

 昼間は入り口付近しか覗けなかった図書室は、なかなかに楽しめそうな場所だった。

 

 ……これは大陸の地図だね。

 

 壁に飾られた地図を見ると、意外なことに大陸の地図だ。

 日本では普通に世界地図なんてものが作られていて、誰でも簡単に見ることも買うこともできていたが、ほかの世界では地図の扱いは違った。

 

 地図という物は、土地の情報そのものである。

 どこに街があるか、川があるか。

 山はどうだ、森はあるか、といった情報は、いざ戦争となった時に敵に知られていると不利になる。

 そのため、自国の地図の扱いは国家機密や軍事機密に近い。

 少なくとも、日本以外の転生先では、そんな扱いだった。

 

 そんな地図が、今生では貴族家の図書室に飾られている。

 紙の様子からみるに、まだ新しい地図だ。

 ルーナティ王国の地図ではなく、大陸の地図、というところもポイントだろうか。

 魔界と人界を隔てる大山脈の向こうに人間は住めず、ただ暗闇が広がるばかりである――などと言われていた千年前とは様子が違う。

 最低でも、大山脈の向こうには大地が広がり、その先にあるものは海である、と今の時代では知られているようだ。

 

 ……アレス様は、このあたりにいるのかな?

 

 地図を見つけたら、とりあえずは自分のいる場所を探すと思うのだが。

 やはりというか、私はアレス王子がいるはずの大山脈を視線でなぞる。

 アレス王子と魔王の戦いは凄まじいものだった。

 当時ギザギザとした山肌をした大山脈だったのだが、アレス王子と魔王が戦った際に一度綺麗に『整えられた』。

 アレス王子の振るった剣が、スパッとギザギザの山肌を切り裂き、テーブルのように平らな大地が出来上がってしまったのだ。

 

 ……あった。たぶん、このあたり。

 

 簡単な略図で描かれた山々に、一点だけてっぺんが平面の山がある。

 文字も添えられているが、微妙に読めなかった。

 

 ……アレス様が教えてくれたけど、現代いまの文字も覚えなきゃだね。

 

 地図に書かれた文字を眺めてみるが、知っている文字に似ているものもあるが、完全に同じではない。

 微妙に読めそうではあるが、絶妙に読めないのがもどかしい。

 

 ……どうにかして現代の文字を覚えたいな。

 

 さてどうしようか、と次の行動を考えて、図書室をあとにする。

 隠蔽工作は一応してあるが、乳母のマーサがベッドの中まで確認をしたら、さすがに抜け出していることがばれてしまうだろう。

 魔法は便利ではあるが、万能ではない。

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