椿叶

 蝶というものは、どうしてこんなにも美しいのか。

 幼い頃から、そうずっと思っていた。青い空の下を自由に飛び回っていて、明るい陽射しを浴びてきらきらと輝いている。手を伸ばしても届かなくて、捕まえようとしても逃げていく。そこにどうしてか魅力を感じてしまって、蝶が飛び回る季節になると、朝から夕方まで外を走り回った。


 母は虫が嫌いだったから、捕まえても飼うことはできなかった。だけど、毎日虫籠を持って外に出て、捕まえてはその中に入れていた。そうして家に帰る直前までじっと眺めていたのだった。


 当時はまだこの感覚が何かを理解できていなかったのだと思う。もしかしたらまだその時は、そこらの少年たちの虫好きをさほど変わらなかったのかもしれない。

 だけど成長してしまった僕は、いつの間にか周囲とは変わっていた。


 気が付いたのは、友人が珍しい蝶を捕まえたと言って見せてきたときだった。今となってはどんなものだったか忘れたが、それは確かに珍しいもので、虫好きの仲間に見せれば誰もが興奮するような代物だった。


『すごいだろ?』


 友人のその一言には、珍しい生き物を捕まえたことに対する興奮と、誰よりも先に手に入れたことに対する優越感が確かに混ざっていた。この蝶の価値が分かるお前ならきっと同じように興奮して、その価値を認め、悔しがってくれるだろう。そんな期待が込められていた。

 その時は、確か中学生だった。だから、そういう機敏についてはもうなんとなく理解できていて、彼が褒められたかがっていることも分かった。


 それが分かったから、ではない。分かっていても、だ。自分の心は、一切乱されることもなかった。羨ましいと思うこともなく、悔しいと思うこともなく、ただ冷ややかな気持ちで満たされていたのだ。


 嫉妬から来るものではない。的確に表すなら、「どうでもいい」だ。


 蝶は確かに好きだ。好きだ。だがそれは、自分で捕まえたものでなければ、一切の価値を持たない。何の感情も湧き上がらない。他人からすれば些細かもしれない、それでも自分にとっては重大な事実であった。


 自分を怖いと思った。

 興味のあるものなら、自分であれ他人であれ、多少心が揺れ動くものであろう。なのに、自分にはそれがない。

 この不思議な好奇心が、蝶や虫だけに留まるような気がしなかった。そう、それこそ、いつか誰かを、大切な人を傷つけてしまうように思えたのだった。




 月日は流れ、僕は大人になった。

 大人の定義なんてものは分からない。ただ、もう法律的には大人だ。中身がどんなであれ。


 きっと僕の中身は、あの蝶に執着していた頃と変わってはいない。いや、考え方は所謂大人らしくなっている。落ち着いて物事に取り組めるようにもなった。だけど、あの自分で手に入れたもの以外に興味がない、といった点は、一切の変化を見せなかった。


 欲しいと思ったものは、自力で手に入れる。そうしないと、価値が薄れてしまう。蝶ほど極端ではないにしろ、それは他の物事にあてはまった。自覚してしまったせいか、それはよく目についた。漫画、ライブのチケット、それから。自分で手に入れたものとそうでないものでは、気持ちの高揚の仕方が違った。

 年々、この傾向がひどくなっているような気がして、怖かった。あの底知れぬ不安が強くなっていくのも、見て見ぬふりをすることもできなくなっていた。


 蝶は、もう捕まえてもいない。もう蝶を目にしたら、それこそ本当に、大事なものを失ってしまうような気がした。



「君、変わってるよね」


 サークルの飲み会でそう言われたのは、あまりにも突然であった。思わず素っ頓狂な返事をしてしまう。


「いつだって、物事から一線引いて、見物してるでしょう」


 その一言は的確で、誤魔化すように苦笑いを返す。

 当たっていた。欲しいものを増やさないために興味がないふりを続けているのだから、他人にはそう見えてもおかしくはなかっただろう。ただ、こうも正面から言われるとは、微塵も思っていなかったが。


「ミステリアス、なんて思ってたけど、違うね。何なの」


 その女は、人の心にずかずかと入り込んでくるようであった。

 決してかわいくはない。美人でもない。自分に自信を持っているようでもない。ただ気になったから聞く。それだけのようだった。


「聞いたって、君は得をしないだろ」

「好奇心が満たされる。得だと思うけど」


 ビールをぐいと呷る彼女は、やはりかわいくない。決してかわいこちゃんアピールをしたいわけではないらしい。だから不思議と嫌悪感は湧いてこなかった。どちらかというと、面倒くさい、だ。


「んー。あたしは、興味を持ったものは一直線。だけど、飽きるのは早い。飽きたらね、どうでもよくなっちゃうの。でもまあ、熱中してる間は楽しいからいいかなって」


 聞いてもないことを、ぺらぺらと喋る女。とにかく場を収めたくて、耳を傾けているうちに、あることに気が付く。

 僕は、手に入れたらすぐ、飽きてしまうのではないか、と。蝶ほど熱中したものに、まだ出会ったことはない。だから、きちんと考えることはできなかった。いや、避けることができてしまったのだ。


 蝶はいつも、完全に自分のものになる前に手放していた。だけど、もしそれらをうちに持ち帰っていたら。僕はそれを、どうしようとしたのだろう。


 ぞっとした。何かとんでもない間違えを犯してしまうような気がした。興味がなくなるのか、それとも執着が強くなるのか。それは、分からない。だけど、それを体験したら、ただの人間でいられなくなるような気がした。


 蝶を、もう二度と捕まえることはすまい。もうこれ以上、自分を恐ろしいと思いたくはない。


「どうしたの?」

「なんでもない。酔いすぎただけ」


 もし、この興味が人に向いたら。そう思うと心の隅まで冷えていくようで、この思考を振り払うように目の前のアルコールに手をつけた。

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椿叶 @kanaukanaudream

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