090.ナイショ話


「…………ぃ~…………い~ず~――――」

「この声は…………」


 あれからお客さんの来訪も徐々に減り、もうそろそろ店じまいの時間が迫ってきたというところで、遠くから何者かが駆けてくると同時に俺の名を呼ぶ声が聞こえてきた。

 『そろそろ様子を見に行く』と席を立ったアーニャさんの見送りのため、会計をするのを見守っていると、廊下の奥からこちらに向かって走ってくる怜衣さんの姿が。


 俺の姿を見るや迷っていた視線が一方向に。

 もはや文化祭の無礼講。廊下を走るななんて無粋なことは言わない。

 そしてそのまま抱きつこうとしている体勢にも…………まぁ無礼講。とりあえず何も言わない。


 俺はグングン近づいてくる彼女を受け止めようと、その手を大にして彼女を受け止める体勢になる。


「い~……ず~……みぃっ!!」

「おかえ…………りぉヴォ!?」


 しかし、彼女は飛びつこうとしていた身体を更に縮こませ、その身をバネのように一気に開放させた。

 彼女の柔らかな身体はまるでバネのように美しく伸び、更にこれまで走っていた速度を一気に加速させて俺へと飛びついてくる。


 きっと狙ってではないと思うが、彼女の頭は見事俺の腹部やや上へ。

 鳩尾へと容赦なく突っ込んできたその身体は、大の字へ広げた俺の呼吸を乱すには十分な威力だった。


「あっ! ごめんなさい!大丈夫!?」

「ゴホッ! ゴホッ! …………ケホッ…………だ、大丈夫大丈夫。 おかえり、怜衣さん……」


 辛うじて軽傷で済んだ俺は呼吸を整えながら飛び退く彼女を宥めながらその表情を伺う。


 行く時に見えた戸惑いや怒り、悲しみなどが一切ない、解き放たれたような笑顔。今は俺を心配してくれる表情はあるが、それはともかくとして重敏さんとはうまく会話できたのだろう。


「ただいま。 ……ねぇ、ホントに大丈夫?」

「ん……ケホッ。 平気平気。ちょっと受け止め方失敗しただけだし」

「でも……。 呼吸苦しいようなら私が手伝ってあげましょうか?」

「手伝う? それって何す――――って、ストップ!ストップ怜衣さんっ!!」


 呼吸を手伝うとはどういう意味か。

 そう思って問いかけたところ、彼女は何も言わずその瞳を閉じて唇を少しだけ開きながら俺の顔へ。

 そのつま先立ちになりながらも迫りくるのに思わず目を疑ったが、なんとか寸前で引き離すことができた。


 危ない危ない……。さすがに無礼講と言ってもそれは恥ずかしすぎる。まだ人いっぱいだし。


「むぅ……それっくらい、いいじゃない。どうせ結婚するんだし」

「そういうことじゃなくってね……いま人前だからね?」


 プクーっと頬を膨らませて抗議の意を示す怜衣さん。

 そんな彼女の頭を撫でながら同じく近づいてくる少女に目を向ける。


「はぁ……はぁ……。はやいよぉ……おねぇちゃん……」

「あら、私に合わせなくてもいいのに」

「私だって泉さんに早く会いたいしっ! ねっ!泉さんっ!」

「うっ……うん。 おかえり、溜奈さん」

「はいっ! ただいまです!!」


 肩を持った怜衣さんとの間に入り込むよう下から潜り込んだ溜奈さんは、真下で明るい笑顔を見せてくれた。

 そのまま俺の胸元に手を添え、その身を寄せてくる。


「あっ! 溜奈っ!今は私の番よ! せっかくの難局を乗り越えた感動の再会なんだからっ!」

「え~。 おねぇちゃん、散々心配かけたんだから譲ってくれたっていいんじゃない?」

「ぐっ……! それは……あれよ! パパに泉を認めさせる最後の一仕事ってやつよ!」


 俺の胸元でワイワイ言い争いをはじめる2人。

 認めさせる、か。 認められるも何も夏の終わりに託されたことは…………黙ってよう。


「あらぁ、3人共仲良しねぇ」

「「ママ!」」


 どうやって収集つけようか考えていると、ふと声をかけてくるのは2人の母親、アーニャさん。

 彼女は会計を終えたようでニコニコと笑顔を浮かべながら俺たちの横に立つ。


「…………うん。無事パパと仲直りできたみたいね。 ……頑張ったわね、怜衣」

「ママ…………」


 俺から離れた怜衣さんは、そっと頭を撫でるアーニャさんと見つめ合う。

 これが美しい親子愛ってやつか……。俺も怜衣さんが重敏さんとうまく話せて本当によかった。


「――――ってことで、怜衣の次のお仕事はこっちね」

「へっ…………? キャッ!!」


 しかし、まだ彼女には仕事が残っているようだった。

 見つめ合ったのもほんの数秒だけ。すぐにアーニャさんは怜衣さんの両肩を掴んで、彼女ごと身体を180度回転させる。

 小さな悲鳴とともに2人が向いた先に居るのは…………柏谷さん。


「亜由美……」

「怜衣ちゃん……えっと、その…………」


 互いに向き合った親友同士は、名前を呼ぶだけで話が続かない。

 正確には、言葉が出せないようだ。柏谷さんが自らの腕をしきりにこすりながら口を何度も動かそうとするも、モゴモゴするだけで声にならない。


「……? なによ、どうしたの?」

「その……ね…………。 ちょっと耳……いい?」

「いいけど……。深刻なことなの?」


 柏谷さんの話を聞こうと耳を向けるためにこちらを向いた表情は、少しの疑問の後……驚愕へ。

 目をパチクリさせて驚きの表情を浮かべた怜衣さんは、話が終わったのか柏谷さんと向き合ってもその表情は変わらなかった。


「…………本気?」

「ダメ……?」

「ダメってわけじゃあ……ないけど…………いいの? あなた嫌がってたじゃない」

「そうだけど……。 今はもう、そうじゃないと……」


 あまりにも要領を得ない会話。

 しおらしめの柏谷さんにも驚きだが、それ以上に会話の全容が見えないのが気になる。


 そろそろ離れていいかな? あんまり人の内緒話を探るのもアレだし。


「ねぇ、俺向こう行ってようか?」

「ん……どうする? 亜由美?」

「~~~~!」


 怜衣さんが間に立つように問いかけると、口にすること無く首を縦に振る柏谷さん。

 ってことは行っていいのかな?


「そうね。 泉には後で聞いてもらうとして、今は離れてもらえる?」

「え、俺も関係する話なの?」

「当然じゃない。じゃなきゃこんなとこで話さないわ」


 え~。

 じゃあ内緒話にする意味なくない?

 後で要約してくれるならいいけどさ。


「それじゃあ泉、また後でね」

「あっ! じゃあ私は泉さんに着いて行きますっ! 行きましょ一緒に!」

「う、うん……。 じゃあ、ハクと合流しようか」


 俺は腕に抱きついてくる溜奈さんを連れ添ってハクが居るであろう家庭科室へと向かっていく。

 少しさっきの話が気になる、後ろ髪を引かれる思いを抱えながら――――。

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