087.気にしないで
楽しげな雰囲気で包まれるはずの空間が、静かで、冷たい空気に包まれる。
BGMとして軽快でポップな音楽を流しているはずだが、それはまるで遠くの出来事のよう。
そこはカフェとなった教室の角。
あれだけ長かった行列もいつの間にか解消し、残ったお客さんは一人のみ。
それは怜衣さん、溜奈さんの母親、アーニャさん。彼女は俺に背を向けるように怜衣さんを見つめたまま何も言葉を発しない。
見つめられた怜衣さんも、ただ無言のまま彼が出ていった扉を見つめていた。
「怜衣さん…………」
怒りが爆発してこの場を去ってしまいそうなところを、その対象である重敏さんに取って代わられた。彼女は何を思っているのだろう。
怒りか、それとも悲しみか……。
なんにせよ、思うところがあるに違いない。
天を仰いでゆっくりと深呼吸した彼女が振り返ると、その表情はいつもと変わらないものだった。
「…………いつものことよ。 心配してくれてありがとう」
こちらに微笑む彼女は表情だけ見ると全く気にしていないよう。
しかし一方でその手は固く握られており、心の内はまだわだかまりが残っているに違いない。
「ママもごめんね? せっかく来てくれたのにまた爆発しちゃいそうになって……」
「Не волнуйся. 気にしないで。 ママじゃなくって、パパにちゃんと謝らなきゃ」
「でも…………パパと会っても私を見てくれないんじゃぁ…………」
怜衣さんが今回爆発した原因――――それは重敏さんが彼女を見ていないから。
あの祭りの日から度々あってその理由と、その感情も理解できる。親子同士仲良くするのが一番だが、それを押し付けることも勧めることすらできない俺は、手を出すこともできず、どうしようもなかった。
「――――怜衣……それと溜奈も。こっち来なさい」
「私も?」
「もちろんよ。 ほら、ふたりとも私の両脇に。 泉ちゃん、ソッチの椅子を隣に運んでくれないかしら?」
「は……はいっ!」
まさか呼ばれると思わなかった俺は、突然のことについ姿勢を正しながら返事をして、さっきまで重敏さんの座っていた椅子をアーニャさんの隣に持っていく。
4人がけのテーブルに3つ並んだ椅子。真ん中にアーニャさんが座ってその両隣へ2人が素直に腰を下ろした。
「ふたりとも、コレを見てくれない? 泉ちゃんも見ていいわよ」
「なんでタブレットなんか――――。 えっ……これって……私達?」
「だね…………」
アーニャさんの背後に立ってタブレットを覗き込むと、そこに映し出されたのはウェイター衣装に身を包んだ怜衣さんと溜奈さんの写真が。
全くカメラを意識していない写真や、カメラ目線でピースをしている姿など、その中身は様々。しかし全てに共通するのは全て楽しそうにしている様子だった。
「なんでこんな写真が…………? これ、さっきまでパパが触ってたタブレットよね?」
「そうなの?おねぇちゃん」
「えぇ。さっき出ていく時ママに渡してたの。 写ってるのは……そう、今朝亜由美に撮って貰った写真だわ。少なくともカメラ目線のは」
柏谷さんが!?
まさか彼女が関わっているなんて驚いたが、どれも衣装から見るに今日の写真だ。カメラ目線なんて怜衣さんが言うのなら間違いないだろう。しかし、何故この写真を重敏さんが……。
慌てて柏谷さんの姿を探すも見当たらない。――――たしか、この時間は休憩だったか。
「空き時間に送って欲しいってママが頼んだの。 パパは今日ずっと、並んでるときもその写真を見ていたわ」
「なん……で……」
それは…………それはおかしい。怜衣さんが疑問を呈するのも当然のことだ。
怜衣さんによると彼は娘に興味がないということ。なのに写真を見続けるなんて矛盾している。
「あの人ね…………すっごい口下手ですっごい感情を出すのが苦手な人なの。興味が無いなんてそんなことは無いのよ?」
「でも……ならなんでパパは私の言うこと全部『そうか』で済ますのよ!? 感情表現が下手でも否定や心配もしてくれないじゃない!」
俺と付き合うと言ったときも、家に泊まるときも、どちらもその三文字しかなかった。
だからこそ、俺も興味がないと思っていた。興味があるなら心配くらいは…………。
「それはもちろん、2人のことを信じてるからに決まってるじゃない。 泉ちゃんと付き合ったことを知った日なんて夜も眠れないくらい動揺してたのよ?問題無いかどうか、何度も身辺調査してたんだから」
「!?」
え!?いつの間に俺調査されてたの!?
ま、まぁいくら調査されても後ろめたいことなんて…………あっ、授業中寝てるのも知られてるってこと……?
「ということはおねぇちゃん、もしかして夏祭りの日に話が早かったのって…………」
「もう泉のことを認めてたっていうの……?」
まさかそんなこと…………いや、無いとは言い切れない。
あれほど権力があれば何できるかなんて予想ができない。俺の知り得ぬ自分のことも知られていたって不思議ではないだろう。
「なら、そう言ってくれれば…………」
「あの人ったら、『年頃の娘に何言っても嫌われる』って決めつけてて話そうとしないの。 なんといっても『服をパパのと一緒に洗濯しないでって』拒否されることを、会社が倒産するよりも恐れているくらいよ」
「そんなこと……言うわけ……」
クスクスと笑うアーニャさんに戸惑いの色を見せる怜衣さん。
未だに信じられないが――――たしかに、それならば説明がつくことがある。
祭りで俺だけに聞かれたことは本気の想いかどうか、そして泊まりの日には託されたことを考えると、既に認めてくれていたのだろう。ただ深読みしていただけで、その言葉通りに受け取るべきだったんだ。
「おねぇちゃん……もういっかい、パパと話さない?」
「溜奈……。 話すって言ってもパパはもう会社に戻ったんじゃ――――」
「――――いえ、そんなことなさそうよ?」
2人の会話に後悔の色が見えたところで、その会話を遮ったのはアーニャさん。
彼女はタブレットを片してから自らのスマホを取り出して2人に見せる。
「ほら見て。あの人はまだ学校に居るわ。 場所的に……校門ね。空気の汚れ度合いからしてタバコでも吸ってるんじゃないかしら」
スマホの画面に表示されていたのは地図と、一箇所だけ光る赤色の印。そしてその周りには時速や空気の汚染度、騒音度など様々な項目が表示されていた。
…………なにこれ? もしかして…………いや、知りたくない。
「ママ、コレって……」
「やぁねぇ、誰の親だと思ってるの? 2人の親なんですからこのくらい当然じゃない!」
まさしく当然だというように、2人に微笑み返すアーニャさん。
と、同時に俺の脳裏に浮かび上がるのは丁度1年前の記憶。俺が彼女らにつけられて、正体不明の影に怯えていた時のこと。
今、そういうの付いてないよね? それとも今後、こういうの付くのかな……?
「ほら、まだ間に合いそうだし行ってきなさい。 あの人、きっと寂しがってるわ」
「…………ありがとう、ママ。 溜奈、行くわよ」
「うんっ!」
「それに学校前でタバコなんていただけないわ……もういい加減辞めさせなきゃっ!!」
姉妹仲良く、手をギュッと強く握って教室を出ていってしまう。
出ていく時にチラリと見えたその表情は、怒りはもとより迷いも一切ない、笑顔。
そんな彼女の輝かしい笑顏は、帰ってきた時の結果を聞かずともいいと思えるほどだった――――。
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