086.固く握る。
文化祭の熱量も頂点に達し、開いた窓からの声がどんどんと大きくなる。
中庭でやっている出店から流れている音楽が、午前以上に軽快に、そして呼びかけも熾烈になってくる。
もはや生徒たちのテンションは最高潮。
どこもかしこもお祭り騒ぎという空間の中、俺は凍えるような空気をその身全体で受け止めつつ、水の入ったコップを運んでいく。
それぞれが楽しそうに会話をしている幾つかのテーブル。
そのうちの一つ、窓際の角に設置したテーブルだけは楽しそうな雰囲気などどこへやら、極寒の雪山へ来たような寒さを発していた。
別に、物理的に冷たい風が吹いているわけではない。
ただそこに座っている二人組……正確にはそのうちの1人が、それほどのプレッシャーを発しているような気がするのだ。
きっと俺だけが感じる勘違いだろう。しかしそれでも寒い。俺だけを狙い撃ちしているように寒い。
まさしく命が賭かっているような気になりながら、震える腕を必死に抑えつつコップの乗ったお盆を慎重に運んでいた。
「い……いらっしゃいませ……。 お冷です…………」
「あぁ…………」
ガタガタに手が震えながらも、なんとか零さないように彼の前へと置く。
怜衣さんと溜奈さんの父親、星野 重敏さん。その大きな体躯でピシッとしたスーツを着こなしながら高校生徒用の椅子に座る姿は、明らかに場違いだ。
当然か。彼はこの日本を代表する大企業の社長なのだ。もはや国家要人とも言えるレベルの。そんな彼からすれば文化祭など児戯に等しい。それ以下だ。
俺はその身にヒシヒシとプレッシャーを受けつつも、なんとか作った笑顔でもう一人へとコップを置く。
「あら、ありがとう。 泉ちゃん」
彼の向かいに座るのは2人の母親、アーニャさん。
彼女は色濃く受け継がせたその銀の髪をなびかせつつ、美しい所作でコップを傾ける。
日本人離れした整った顔つきに銀の髪、そして水色のドレスが調和して、まるで妖精のようだ。
その仕草に一瞬見惚れてしまったが、すぐに自らの仕事に気がついて慌ててメモ帳を取り出す。
「ご……ご注文はお決まりでしょうか? なければ後ほどお伺いしますが」
「いや、決まっている。 コーヒー。 …………アンナ」
「それじゃあ私はオレンジジュースを頂こうかしら? いい?泉ちゃん」
「は……はい! 少々お待ちを!!」
アーニャさんが柔和な雰囲気で受け答えしてくれるにも関わらず、そのプレッシャーが限界に達した俺は、注文を復唱することすら忘れて裏へと引っ込んでしまう。
必死に書いたメモを近づいてきた子になんとか渡してその場に座り込むと、入れ替わるようにやってきたのは怜衣さんと溜奈さんの2人。
怜衣さんは2人が来た途端どこに行ったかと不思議だったが、溜奈さんを呼んできたのか。
「泉さんっ! パパが来たって聞きましたけど……」
「うん……あそこ……」
俺が指した先を覗き込むようにカーテンを開けると、タブレットを触っている重敏さんとそれをニコニコと眺めているアーニャさんが目に入る。
そのさまはまるで子供の様子を見に来た普通の親族のよう。しかし2人もプレッシャーを感じたのかゴクリと息を呑む。
「わぁ……。 ダメ元だったけど、ほんとに来てくれるなんて……」
「ね……。 驚いたわ」
「おねぇちゃん、どうするの?」
「どうするもなにも……行くしか無いんじゃないの?」
「大丈夫? おねぇちゃん怒らない?」
「…………」
溜奈さんの問いかけに彼女は声をつまらせる。
きっと自分でもわからないのだろう。しかしその手はギュッと硬く握られ、真っ直ぐした視線から答えは決まっているようだ。
「とにかく……! 行ってから考えるわ!」
「あっ! おねぇちゃんっ! お願いします!泉さんも一緒に!!」
「えっ!? 嘘!? またぁ!?」
一大決心をしたように大きくカーテンを開いてズンズンと2人の元へと歩みはじめる玲奈さん。
そして少し遅れるように飛び出した溜奈さんと…………何故か腕を引っ張られてまたもホールへ顔を出す俺。
俺も行かなきゃだめなの!?またあの凍える空間に!?
文字通り引きずられるようにして止まったのは2人が座るテーブルの直ぐ側。
当然2人は近寄ってくる姿に気づいたようで、重敏さんは一瞬だけこちらを見、アーニャさんは笑みを崩さずに体ごと向けてくる。
「あら、もう飲み物持ってきてくれ――――ってわけじゃなさそうね。 ふたりとも似合ってるじゃない。可愛いわ」
「ありがと、ママ。 それでパパは…………」
怜衣さんが重敏さんへと視線を移すが、彼は仕事でもしているのだろうか、タブレットから目を逸らすことすらしない。
また怜衣さんが怒り出す……!そう思ったが、彼女も耐えたみたいで今度はしっかりと身体ごと重敏さんへと向ける。
「どう? パパ、 この格好……似合ってる?」
「……………………あぁ」
長い長い沈黙の後、一瞬だけ視線を動かしてからの言葉。
あの夏祭りの日に怜衣さんが激昂した理由は真実だろうか。怜衣さんがしっかりと問いかけても彼は殆ど見ようとしない。
そっと隣まで移動してきた怜衣さんが、俺の手を握る。
固く、固く。まるで怒りを堪えるかのように。
「パパ……今日は私達の文化祭なんだから…………。そんなに仕事優先なの?」
「…………いや」
否定しようともその目はずっとタブレットを追ってる。
それは、彼女にとって逆効果だった。
「――――――――もうっ!!!」
まるで爆発するような、感情のままの言葉。
ずっと笑顔で対応して耐えてきた怜衣さんは、もはや限界というように叫んでその場を静まり返らせる。
幸い彼ら以外の客は居なかったが、それでもこの場の全ての言葉が消え去り、全員がこちらに注目した。
突然の大声に目を丸くする溜奈さんと、笑みを崩さないアーニャさん。そして一切気にしていないのかひたすらタブレットを見ている重敏さん。
「パパは…………パパはせっかくの娘の晴れ姿なのにそんなに気にならないの!? そんなに仕事のほうが大好きなの!?」
「怜衣さん…………」
「もういいっ!! パパなんて知らないっ!!」
自らの感情が限界に達した怜衣さんは逃げるように教室から出てい――――
――――――――出ていくことは、叶わなかった。
「えっ…………?」
「…………」
彼女が踵を返して走り出そうとした瞬間、それを止めるように重敏さんが手を伸ばして彼女の手首をしっかりと掴み取る。
目を丸くする怜衣さんと無表情の重敏さん。2人はしばし見つめ合うが、すぐに目を逸らして彼が立ち上がる。
「パパ…………」
「…………そうか」
ひとしきりの沈黙の後、彼はなにか納得したように呟きながらその場を後にし、教室から立ち去ってしまう。
手にしていたタブレットをアーニャさんに押し付けて、もう出番は終わりかと言うように。
「えっ――――」
彼女の小さなつぶやきは静まり返った教室と言えども次第に霧散する。
俺たちは立ち去った彼の後ろ姿を見送りつつ、その場に立ち尽くしていた――――。
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