080.許せないこと


 ウゥゥゥゥン…………。


 静かな駆動音が唯一の音源とばかりに部屋の空気を震わせている。


 機械が駆動して出てくるのは白い煙。

 もう出る煙も少なくなってきたことを知らせる赤いランプは誰にも知られることなく最後まで水を煙に変えて部屋の空気を満たしていく。



 部屋の隅で駆動する機械とは反対側、この部屋で最も専有面積の大きい家具……ベッドに横になっている少女は静かに、そして規則正しく寝息を立てていた。

 あれほどまで苦しそうに、そしてとめどなく出ていた汗はいつの間にか収まっており、ただ普通に心地よい眠りに誘われている姿。


 そしてそのベッドの横、フレームに寄りかかるように座っていた俺も身体の力を抜いている。

 外から差し込むのは赤く、そして以前より遥かに照射時間が短くなった西日の光。

 その光を一身に浴びながら見ていた動画も次第に飽き、その心地の良い静かな空間に誘われるように俺も眠りの世界へと旅立ってしまっていた。



 静かな空間に占める音は加湿器の駆動音、そして俺たち2人の寝息。

 まだ辛うじて周りの気配を感じ取っていたが次第に難しくなり、その手に握っていたスマホすらもスルスルと力が抜けていく。



 ゴトン――――


 そんな異音が響き渡るも反応する者なんて居ない。

 俺も拾うよりも眠気のほうが勝ってしまって気にかけることすらしない。


「んっ――――」


 どこかで、そんな音がした。

 俺ではない誰かの発した小さな音。

 次第にその気配は大きくなってきてバネの跳ねるような金属音までもが聞こえてくる。


「キミは…………。 もうっ、なんてところで寝てるんだい…………」


 独り言のような言葉を発しながら、9割以上眠っている俺の耳に触れてくる感覚がした。

 髪をかき分け、耳に触れ、顎へと顔の輪郭をなぞる感覚。

 次第にその手がくすぐったくなって、うめき声を上げながら首を動かすと、クスッとした笑い声が聞こえてきた。


「1日ずっと見てくれてたんだね……。 ありがと……」


 手が離れたかと思えば一瞬頬に触れる柔らかな感触。

 しかし殆ど眠っている俺からしたらそれが何なのかわからなかった。

 感触のことは放っておいて更に深い眠りに入ろうとすると、今度はその身がなにか柔らかくて温かいものに包まれる。


「もしかして……こうやっても起きないのかい……?」


 ギュゥッ!っと胸元から背中にかけて圧力が加わるも、俺にとっては柔らかで暖かく、そして落ち着く香りに包まれるのだから更に眠りに加速する。


 あぁ……気持ちいい……。

 特に胸元の感触がホントにいい。柔らかく、そして弾力のあってまるで優しさそのものに包まれているようだ。


「ふぅん……そうなんだ……。そうやっても起きないんだ…………」


 フッとそれまで身を包んでいた感覚が離れていき少し遠くのほうでなにか物音が聞こえる。

 あっ……。いっちゃった……。 あのままだったら座るという変な体制でも、さぞかし心地よい眠りにつけただろうに。


 シュルル……パサッ……と、独特の音が聞こえたと思ったら、今度はパチンとゴムの張るような音。

 そんな事すら気にせず俺は眠りにふけっていると、今度は膝上に何かが乗ってくるような圧力を感じ取った。


「ふっふっふ…………。これでも起きないなら……ボクにも考えがあるよ」


 そう耳元で告げた彼女は、「えいっ!」と小さな掛け声のあと俺のアゴを引き上げたと思えば、何やら唇に触れる感触だ。

 柔らかく、そして湿気っていて、なおかつ顔全体が包まれる感覚。

 その様子に疑問を持ったおれはようやく意識を浮上させる準備に取り掛かると、今度は包まれた片方が無くなって俺の鼻へムギュッと強くつままれた。


 1秒……5秒……10秒……。

 口は柔らかなものに包まれ、なおかつ鼻さえもつままれた俺は、意識を取り戻す準備が完了する前に限界が来てしまった。


 およそ15秒経たないくらいだろうか。

 今まで心地よい眠りについていたのに、かつてない命の危機に晒されたと脳が発する警報に気づいた俺は、慌てて目を開きその身体を後ろに下げる。


「な……なに!?なにごと!?」

「あ、起きた」


 目を見開いて辺りの情報収集に務めると、目の前には上唇を舌なめずりしているハクの姿が。


「ハク……? また俺の家に……」

「おはよう、ねぼすけさん。 この場合お早くはないね。ほら、外見てご覧よ」

「外…………?」


 彼女が向けた窓に俺も視線をやると、もう光も消え入りそうなほどになっている太陽が見て取れた。

 朝日…………?と思ったが違うようだ。ここはハクの部屋。そしてこの部屋から見える太陽は西日以外ありえない。


「あぁ……そっか。 俺ハクの部屋で…………って、もう大丈夫なの?」

「もちろん。 一眠りして全快したよ」


 目の前の彼女は俺の膝の上で女の子座りをしたまま嬉しそうに胸を張る。


 そういえば俺、ハクの看病をしていたんだった。

 リビングでつくったお粥をハクに食べさせて、俺はおにぎりを食べて。そのままハクが寝ちゃったから動画見てたら俺も寝てしまったんだ。

 よくよく見れば彼女の格好はデニムのショートパンツに白シャツ。どうやら寝ている間に着替えていたようだ。

 クッ!!なんで着替えてる時起きてなかったんだ俺は!せめて薄目で見るという手があったのに!!


「あっ…………!」

「ん?」


 目の前で行われていたであろうチャンスを逃したことを悔いているとふとハクがしまった!というように口元を手で覆う。


「ごめんセン。 さっきついキミにキスしちゃって……。 風邪移しちゃったかも……」

「キスって………あぁ、なるほど。 大丈夫、そのときは合法的に学校サボるよ」


 いつの間に……!そう一瞬考えたが、さっき寝てる時にらしき感覚はあった。

 それにしても、キスじゃ狼狽えなくなったなぁ俺も。人の慣れって凄いと同時に恐怖すら覚える。


「その時はボクが学校休んで看病するさ」

「それでまたハクが風邪引いてって……無限ループになりそうだねそれ」


 お互いが看病して互いに風邪を移しあって……永遠に抜け出せない風邪のループ。むしろ授業受けなくていいのはメリットか。


「でも、今日は本当にありがとね、セン」

「いいって。俺がインフルかかった時に比べたら全然でしょ」


 俺の脚に座る彼女が抱きつくように寄りかかってきたのを見て、俺もその肩を優しく抱く。


 中学の頃、俺がインフルエンザにかかったときは随分と迷惑かけた。

 珍しく俺がダウンして、ハクが慌てて半泣きになりながらも看病してくれて……。結局午後になれば俺がハイになったが、今となればいい思い出だ。


「でもセン……ボク、一個だけ怒ってる事があるんだ」

「怒る?俺なんかやらかした?」


 彼女の言葉に俺は眠る前の事に思いを馳せる。


 なにか看病でやらかしたっけ?

 お粥はちゃんと作ったし冷却シートもちゃんと管理した。

 あと考えられるのは……あぁ、寝ちゃったこと?確かにそこを突かれたら言い訳ができない。


「なんであの時……ボクが必死にアピールするため服も脱いだっていうのにキミは逃げたのさ……。せっかく勇気を出したのにフイにして」

「そこ!? あれ熱にうなされた妄言じゃなかったの!?」

「そんなわけないじゃないか! ボクは本気で誘ってたんだよっ!!」


 いくら誘うにしても風邪でうなされてるときはないだろう!

 俺も一瞬惹かれそうになったけどさ……。でもさすがに安静にしなきゃって時にそれはマズイ!


「だから、今からしばらくは罰として、センはこのままの格好でジッとすること!」

「えぇ…………何する気?」

「キミはただボーッとしてるだけでいいんだよ。 ボクが全部……やってあげるから」


 ヤダ不穏!

 そんな天井のシミをってニュアンスで言われちゃ警戒しちゃう!


 手をワキワキさせて寄ってくる彼女に、乗られて身動きのとれない俺。

 その手が肩に達してもう逃げられない……!そう思ったが、彼女は身体を傾けて俺の胸元に頭を預けるよう倒れ込んできた。


「ハク……?」

「ずっとそばに居てくれたのに、ギュッとできなかったことが心残りだったんだ。 だから、しばらくこのままでいさせて」

「…………うん」


 俺は抱きついてくるハクの背中に回して彼女を受け入れる。

 そのまま静かな時が流れ、またも彼女が眠ってしまったお陰で、恵理さんが様子を見に来てくれるまでの2時間、俺はずっとこのままの状態でじっとしているのであった。

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