069.風呂場への攻防


「さて…………亜由美さん、これはどういうことだい?」


 ポタリ――――ポタリ――――。

 彼女の綺麗な黒髪がいっそうの光沢を得てその毛先から雫が落ちていく。

 

 俺はフローリングに少しづつ溜まっていく水を眺めながらゆっくりと視線を上に上げていく。

 しっかりと地についた足に、その先にある真っ白なふくらはぎに太もも。それはある程度細さは残しつつもしっかりと太ももに肉が乗って健康的な印象を与えられる。

 そしてその先……膝上10センチより上は白いタオルに隠されてその全容が明らかになっていないが、これまでの状況からして明らかに何も着用していないことが伺えた。

 乾かすことすら後回しにしたせいで、内ももから水滴が垂れているのも気にせず、彼女はそこに立っていた。


 すぐ前で仁王立ちをするように腰に手を当て、俺たちを見下ろしてくるハク。

 彼女はバスタオル以外に身体を隠すものは何もなく、その上腰に手を当てているものだからその大きな胸部と反比例するように細い腰つきが俺をどうも惑わしていた。

 けれど雰囲気は決してそんなことはない。彼女は俺と柏谷さん、玄関に正座している俺たち2人をジッと見つめているのだから。


「いや、ハク……これはね…………」

「センは黙ってて。ボクは亜由美さんに聞いてるんだから」

「はい…………」


 まるで浮気がバレた亭主のようなやるせなさ。

 あながち間違ってはいな――――いや、どうなんだろう。今日のは完全に未遂だし、違うのかもしれない。けれどこれまでのことを思い出すと…………うん、色々と不味いかもしれない。


「……それで、どうなんだい? 亜由美さん」


 チラリと隣の柏谷さんに視線を移すも、彼女は無表情のまま問いかけているハクと目を合わせた。

 しばらく無言の時が続いたものの、しばらくの後に柏谷さんの小さなため息の音が漏れてその小さな口が開いていく。


「どうって、ただコイツにオヤスミのキッスをしてあげただけよ。 もちろん頬にね」

「キス…………」


 なんてことなく答えた言葉にあからさまに眉をひそめるハク。

 まさか包み隠さず言うとは……俺はてっきり髪にゴミが付いてたとか言って適当にごまかすと思ってたのに。


「キミ……センのことが好きなのかい?」

「まさか。 唇はともかく頬にくらい欧米じゃ普通のことよ。 あなたも、怜衣ちゃんのママにしてたじゃない」

「それは相手が相手だったから……。 ともかく、亜由美ちゃんは他の男の子にも同じことを?」

「なわけないじゃない。 これまで女子校育ちで男の子のトモダチなんてコイツ一人しかいないわよ」


 柏谷さんの視線の誘導にハクの目がこちらに動かされる。

 汗が……冷や汗が止まらない。俺も一刻も早くお風呂入って汗を洗い流したい。


「もちろん、それだけじゃないわ。コイツに頼んだのは、あたしに好きな人ができたときの練習。 あとは――そうね、上下階のよしみかしら?」

「上下階…………?」


 怪訝な視線が俺たちを襲う。

 あぁ……これは嫌われる。色々と黙っていたことを。 タイミングとか考えずさっさと言っておけばよかった。


「えぇ、あたしはこの夏から上の階に住んでるの。 たしか……カラオケ行った日の手前だったかしら?」

「あの日か…………。 なぜ? キミには少し離れた家があるだろう?」

「パパの意向でね。人生経験云々言ってたわ。 半ば追い出されたようなものよ」

「…………」


 ハクは腰に当てていた手を口元に当て少し考える素振りを見せるも、柏谷さんは涼しい顔してその様子を見守る。

 そして考えが結論づいたのか、ハクは俺の手を取ってその場に立たせた。


「えっ、なに……?」

「センはボクの隣に」


 つまづきながらもなんとか立ち上がって視線を下げると柏谷さんと目が合う。

 つり上がった目尻に真っ黒な瞳。そんな目がバチッと合うと彼女はほんの少しだけ頬を緩ませた。


 普段から怒っているような彼女が見せた柔らかな微笑み。

 つり上がった目が下がって口元が上がる様子に一瞬だけ見惚れると、ハクはその瞬間を突いて俺の後頭部に手を回し自らの元に引き寄せる。


「なにっ――! っ……~~~~!!」

「んっ――――」


 隙をついて突然奪われた、何度目かの口づけ。

 突然のことにどうすることもできずその両肩に触れていると、彼女の手が俺の手首を持って誘導するように自らの腰へ。そしてもう片方は自らの頭に。


「ぷぁ……ちゅっ……ん……んちゅ…………」


 俺も抱きしめているような形になったお互いのキス。

 彼女は舌こそ入れてこないものの酸素を求めるために少し離れたかと思えば、何度も距離をゼロにしてその愛を確かめる。


 まるで目の前にいる柏谷さんに見せつけるように。そして、誰のものかを知らしめるように。


「ぷはっ…………。 はぁ……はぁ…………ちょっと長く、しすぎちゃったね……」

「ハク……。柏谷さんの目の前で……」

「……だからだよ」


 もう満足したのか、そっと離れていった彼女は俺の腰に手を回しながら柏谷さんを見る。

 その表情は何を思っているのだろうか。全くの無表情で俺には読み取ることができない。


「……亜由美さんには言ってなかったね。 彼はボクのもので、ボクは彼のものだ。それは人生も、身体も、心も全部。 ……だからたとえ君が彼を奪おうとしても、心だけは渡さないよ」


 いつかの日にも言った、ハクの宣言。

 その目には意思が籠もっていた。本当に俺のことが好きだと。

 その宣言を効くことで俺も愛されているのだと感じて胸の内が満たされていくのを感じる。


 けれど彼女は全く、その言葉を意に介さないようで――――


「はぁ……。何ってるのよ、琥珀ちゃん。 それくらいわかりきってるし、心配せずともコイツどうこうする気はさらさらないわ」

「…………」

「そんな心配せずともコイツはあなたを見捨てないわよ。 あなた、怖くなったんでしょう?あたしがキスしようとしてるのを見て」

「それは…………」


 立ち上がって目線を合わせる彼女にハクは目を逸らす。


「こいつ、あたしが何度頬にキスしても困惑ばっかで一度もその気になってないのだから大丈夫よ。 あなたも、もちろん怜衣ちゃん溜奈ちゃんも、ちゃんと愛されてるわ」


 それは俺の心の代弁。確かに困惑してばかりだが、俺が3人を嫌うなんてありえない。

 そう確信を持ちながらハクを見ると少し不安そうな表情で俺を見上げていた。


「ハク…………」

「セン…………。 ごめん。 さっきの見て……キミが離れていくと思ったんだ。だから、つい我慢できなくなって…………」


 柏谷さんにその心の内を見抜かれた彼女は視線を下に落としてポツリと告げる。


 そっか……さっき怒ってたのは、怖かったから。俺がもしかしたらハクを捨てるのかと、そう思ったから。

 けれどそんな事は絶対にしない。俺はそんなハクを、しなしなになった髪ごと優しく撫でる。


「つまり、妬いてくれたんでしょ?」

「…………ん」

「ありがと、ハク。 俺も妬いてくれて嬉しい」


 ゆっくりとお互いに向かい合って視線を上げた彼女は、シャワーによるものなのか目の縁に水滴が付いていた。優しく指先で拭うとその不安そうな顔が少しづつ明るさを取り戻していく。


「ごめんねセン……重い女で……。あの2人が重いから、せめてボクはって思ってたけど……どうしても好きな気持ちが溢れてきちゃって…………」

「ううん、いいよ。 俺はそっちのほうが好かれてるってわかって嬉しいかな」

「セン…………」


 一歩ゆっくりと近づいて胸の内に収まった彼女に優しく手を回す。

 いつもは頼もしく、助けられる背中がとても小さく、弱く見えた。俺はそんな彼女を壊さないようにゆっくりと包み込んだ。


 そしてもう一度見合った俺たちはそっと互いに口づけを――――


「――――あぁはいはい。あんたら、あたしがいること覚えてるかしら?」


 ――――することは叶わなかった。


 キスの寸前、そっと隣にあらわれる柏谷さん。

 危ない危ない……忘れかけてた。もうすっごいジト目だし。ごめんって。


「柏谷さん……。今日はごめん、話をややこしくして」

「まぁ、あたしがアンタの頬にキスしたことが原因だしね。誤解を招いたことは悪く思ってるわ。 でも――――んっ!」

「!!」


 ――――けれど彼女は、それでもお構いなしだった。

 俺がハクを抱きしめているときでも、その横に回って軽くジャンプする。

 その目的は、もちろん最初来たときと同じもの。 ピョンと飛んで到達するのは俺の頬。

 俺たちが油断しているタイミングを見計らったのか彼女は俺の頬に軽くキスして、玄関の扉を開け放つ。


「でも、頬にキスくらいは許してね?琥珀ちゃん。 それじゃ、またねぇ~」


 まるで暴風のように去っていって玄関に残されるのは俺とハクのみ。

 その執念とイタズラが成功したような笑顔、そして頬に残った柔らかさを思い出しつつ頬に手を触れる。



「セン…………? なにボーッとしてるの、かなぁ…………?」

「あっ、いや、これはぁ…………」


 けれど余韻に浸ることなど、できなかった。

 すぐ下から見上げてくるのはハクの怒った顔。

 そのバスタオル一枚で谷間が見えてる事にようやく気づいた俺は、目を逸らしつつ応えると彼女はその身から離れて洗面所への扉を開け放つ。


「セン、行くよ」

「行くってどこに?」

「もちろん、お風呂」

「…………?   !?!?」


 一瞬何を言っているのか理解できなかったものの、気づいた時には彼女に俺の手が掴まれていた。

 一歩、また一歩と近づいてくるお風呂場への道のり。さ、さすがにそれはまだ早いっ!俺まだ責任取れないっ!


「ほら、さっき抱きしめて気づいたけど、キミも汗が凄いからもう一緒に入っちゃおう」

「いあっ!俺はハクの次に入るからっ!!」

「ボクはね…………セン、さっきのキスを見て限界なのさ。 キスの上書きと、それとムラムラしてやまないから……いいよね?」

「っ――――!!」


 俺は無理矢理掴まれた手を振り払って彼女を洗面所に押し込み、その扉を閉める。


 ハクと俺との攻防は、『うるさい』と再びやってきた柏谷さんの苦情が入るまで続くのであった――――。

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