061.宿題退治


 柏谷さんが上の階に越してきて、更にカラオケで遊んだ日から幾ばくかの時が過ぎた――――。


 気づけば夏休みというものも半分以上過ぎ去っていて、8月も真ん中に差し掛かるという頃。

 

 俺はただただ机に向かっていた。

 部屋を彩る音という音は無く、ただただカリカリとした擦れる音が聞こえるばかり。

 けれどひたすらに、それ以外の事象なんて無いように目の前の事に集中していた。


 頭の中を駆け巡るはこれまでに学んできた数列の数々。

 数列に幾つかの数字を当てはめ、導き出された数字を決められた文言の一箇所に加える作業を繰り返し、どれだけの時が経ったのだろう。

 今日朝から始めて一度も切れない、ひたすらに続く集中力。何十にも重なった紙の束を捲りまくってたどり着いた最後の1枚。俺はその右下に書かれた問いに無言で答えを算出し、テーブルの脇にペンを置く。


「おわ…………たぁっ…………!!!」


 その心からの叫びに幾つかの視線がこちらに向き、俺は気にしまいと手を真上に掲げながらフローリングの上へと倒れ込んだ。


 冷房のおかげでヒンヤリとした床が気持ちいい……今日みたいな開放された日なんか最高だ。



 俺は今日、夏休みも中盤に至ってようやく、夏休みの宿題を完遂した……!

 普段なら終盤になって危機感を覚えてからハクに恒例の土下座を披露してやるところ、自力でこんな早く終わるなんて奇跡以外の何者でもない。

 高校に入って自由研究や読書感想文なんて面倒なものが無くなったのは幸いだが、それを引いて余りあるほどの宿題を出されていた。

 それは殆どすべての教科から出される問題集。幾つかの教科は温情からか少なかったが、基礎5教科は地獄だった。


 特に数学。A2用紙にビッチリと問題が詰め込まれていて、それが40ページ弱ときたものだ。

 絶対毎日やらせるという強い意思が伝わってきたけど、なんとか終わらせたぞ……余裕を持って……!!


「おつかれさま、泉。 よく頑張ったわね」

「ありがと……怜衣さん。 みんなが教えてくれたからだよ」


 俺が倒れ込んでいる隙に問題集を片付けてくれ、お茶を差し出してくれる怜衣さん。

 彼女は……というか俺以外の全員はほぼほぼ7月中に宿題を終わらせていた。けれど一人遅れる俺を取り残すこと無く、絶妙なアメとムチで宿題を教えてくれたのは彼女たちのおかげだ。

 正直いつものままなら土下座コースだった。相手はもちろんハクと先生に。


「泉さ~んっ! ど~んっ!」

「おわっ!?」

「やっと終わったんですねぇ! これで私もギューってできますよぉ!」


 コップを傾けながら入れてくれたお茶を飲んでいると、膝上に乗ってくるのは隣で見守ってくれていた溜奈さん。

 ここ最近宿題に集中するため、彼女から触れることも控えてくれてたしな。

 でも、飲んでる途中にお腹ギューってされると胃が……胃が縮む……!


「聞いてよ泉。 溜奈ったらここ最近あなたを抱きつけないからってお風呂やベッドで私に抱きついて来るのよ。お風呂なんか潜ってまで来るんだから」


 え、なにそれ詳しく。

 なんで二人でイチャイチャしてる時に俺を呼んでくれなかったの。言ってくれれば宿題終わらすのもっと遅らせたのに。


「だってさみしいんだも~んっ!!」

「寂しいからって危ないじゃない。 日に日に大っきくなってくのを目の当たりにする私の身にもなってみなさいよ……」

「えっ!? 私太ってきてる!? 泉さんっ!どうですか!?」

「いや……全然そうには見えないけど…………」


 服越しからしかわからないが、少なくとも俺からは溜奈さんが太っているようには思えない。

 ネットとかで見るモデルみたいに心配になるほどガリガリでもない、丁度いいくらいの体型。むしろ今のままが一番では?


「もっとちゃんと見てくださいっ! ほら、触ってみてもいいですよ!!」

「っ――――!」

「溜奈! 何してるのよ!服下ろしなさい!!」


 彼女は突然、もっと見て!というように白のブラウスと巻き上げて腹部を俺に見せてくる。

 いきなりのことで目の当たりにしたそれは、白くて傷一つ無い、くびれのできたお腹。

 痩せすぎもなく、太ってもいない健康体。更に彼女は勢いよく巻き上げたせいでお腹のもっと上……水色と黄色のボーダー柄になった可愛らしいブラの下半分が視界に入って――――怜衣さんに降ろされた。


「何って……泉さんに触ってもらおうと?」

「それにしては上げすぎよ! ブラまで見えちゃってるじゃない!」

「? 泉さんならいいんじゃ?」


 いや待って。俺が待って。

 確かに嬉しいけど理性が持たない。今ここで理性を無くしたら色々と……俺が死ぬ。


「私が悪かったわ。大っきくもなってないから落ち着きなさい。 ……明日があるんでしょう?」

「あっ! そうだった!!」

「明日?」


 俺が首を傾げると彼女は待ってましたかのように頷く。

 明日は……なんかあったっけ?予定はなかったはずだけど。


「泉が宿題を終えるのを待ってたのよ。 これからみんなで遊ぼうと思ってね」

「あぁなるほど。 なにか考えてるの?」

「えぇ。 取り敢えず明日はウチのプールで遊ぼうと考えてるわ」

「…………ウチの?」

「もちろん、ウチの」


 一瞬何を言ってるかと混乱したが、よくよく考えたらあの広い家だ。プールくらいあってもおかしくないと納得した。

 ……いや、納得させた。だって住む世界が違うんだし、ある程度常識を捨てないといけないことを、柏谷さんとの食事会で学んだから。


「もちろん白鳥さんや亜由美にも声かけてるわ。みんなで遊びましょ?」

「柏谷さんも? よく了承したね」


 最近ある程度嫌いが緩和されたと思ったけど、態度は相変わらずなのに。

 今日も上にいるはずだ。だから理性を無くしたら上の彼女に察知されて俺が死ぬ。


「亜由美? 即答だったわよ?」

「…………」


 彼女の態度は謎が多い。

 普段は俺のこと嫌いまくってる感あるのに大事なところは助けてくれるし、それに――――。


「ま、そんなこんなで私達はお暇するわね」

「え、早くない?」


 いくら宿題で時間を食ったとはいえまだおやつの時間にも達していない。こんな時間に退散だなんて珍しい。


「これから白鳥さんと亜由美とで水着を選びにいくもの。 残念ながら泉はお留守番。明日の楽しみに取っておいてね?」

「あぁ……なるほど、了解」


 何かと思ったら女性陣で買い物か。

 ちょっとさみしいけど理由が理由だししょうがないよね。俺はノンビリ一人の時間を楽しもう。


「寂しくなったら連絡してくださいね!!すぐギュッとしにきますんで!」

「ほら、溜奈! 早く準備しないと遅れるわよ! ごめんね泉、それじゃ!」


 怜衣さんは溜奈さんを引っ張って部屋を出ていってしまう。

 最後の最後で慌ただしかったけど、きっと俺が宿題を終えるまで耐えてくれていたんだと思う。

 俺もまさか決まるとは思わなかったプールの為に、実家に水着を取りに行くため準備を始めていった。



 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



「さて、そろそろかな――――」


 もう夜も更けてきた亥の中刻。

 水着を取りに戻った実家から帰ってきた俺は、ノンビリと一人ベッドに寝転んでいた。

 ふと時計を見ればやってくる『いつもの』時間。そろそろかと身体を起こすと、待っていたかのように家のインターホンが鳴り響く。



「はぁい…………こんばんわ。 ――――柏谷さん」

「……ふんっ」


 ゆっくりと扉を開ければ、いつものごとく扉前に立っているのは鼻を鳴らしながら胸下で腕組をする柏谷さんだった。

 彼女は俺が数歩後ずさるのに合わせて家の玄関まで入り込み、閉まった扉に寄りかかる。


「今日、みんなで水着買いに行ったんだって? 柏谷さんもプール来るんだね」

「なによ? 悪い?」

「いや。悪くはないけど…………」


 少し機嫌が悪いのか睨みつけられて縮こまってしまう。

 何かあったのかな?


「はぁ……ちょっと疲れただけよ。 あたしに合う水着がなかなかないし、溜奈ちゃんがアンタのことばっかり話すしで……」

「それは……お疲れ様」


 なんとなく溜奈さんが彼女にベッタリ張り付いて話をする図が容易に浮かぶ。

 もしかしたら柏谷さんも、断ることは不可能だと察してプールに行くことを決めて、ホントは行く気なかったのかもしれない。そしたら悪いことしたな。


「別に。アンタのせいじゃないわよ。あたしも楽しみだし…………」

「えっ?」

「なんでもない! それより、はい!早くしゃがみなさいよっ!」

「……はいはい」


 少しご機嫌斜めな彼女に従うように俺は彼女の目の前でしゃがんでいく。

 そして目を逸らすように横を向くと…………フッと頬に柔らかな感触が頬へと触れてきた。


「……ん。いいわ。 アリガト」

「全然いいけど……毎日こんなことしていいの?」

「ぇ…………嫌なら止めるけど……」


 俺は触れられた箇所に手を触れながら立ち上がって彼女を見ると、目を伏せて怯えた表情を見せてくる。


「い……嫌じゃないけど……」

「そう……ならいいわ」


 未だに直視できない彼女をチラリと見ると、ほんのりと頬を紅く染めた彼女が扉へともたれかかる。


 俺はあの日、引っ越した翌日以降、毎晩こうやって柏谷さんが部屋に訪れるやいなや、頬にキスされ続けている。

 何故かと聞くと、『いつか運命の人とするための練習』だそうだ。


 正直わけわからなくて断りかけた時、さっきのような怯えた表情をされてしまっては断ることもできない。

 だから俺はこの半月ほど、毎日彼女が家に来てキスされることを受け入れているのだ。



「アンタがあたしにとって唯一の『トモダチ』なんだから、悪いけどこれからも付き合ってもらうわよ。 あとあの子達にも秘密にすること!」

「はいはい。何度も聞いたよ」


 唯一のトモダチというのもわからない。

 あの三人は?って聞くと怜衣さんや溜奈さんは親友、ハクは普通に友達って言うし……何か違いでもあるの?


「ならいいわ。 それじゃ、また明日。おやすみ」

「ん、おやすみ」

「……明日、楽しみにしてるわね」


 もうやることは終えたかのようにさっさと扉を開けて部屋を出ていってしまう柏谷さん。

 扉が閉まる直前小さく聞こえた言葉に、安堵からか小さく笑みをこぼすのであった。

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