060.友達→トモダチ


 フワフワと、自らの意思が希薄化する。


 思考が、身体が、感覚が。

 すべてが肉体を離れたように重力を失い、全てが浮いたような感覚が自らの全てを占めていく。


 目を開けているはずなのにその情報が頭に入ってこない。

 光か……それとも闇か……。確かに認識しているはずなのに、このフワフワとした感覚がその情報を咀嚼することができなかった。



 俺は……何をしていたんだっけ……。


 …………そうだ。考え事をしていたんだった。


 今まで何を考えて……そう、昨日のこと。

 昨日、引っ越しの手伝いを終えたところで起こったこと。そのことを考えてたんだ。


 まったく予測すらできなかったこと。その後のことも、普段ならば確実に考えられないであろうこと。


 そう、俺は昨日――――。




「――――ン――――セン―――――センッ!」

「――――えっ!? あっ……なに!?」


 思考が一つの答えを出そうとしたところで、不意に掛けられる声により、俺の意識は現実へと引き戻される。

 慌てて辺りを見渡せば少し暗めの個室に大きめのテーブル、そしてその周りを囲むように椅子が設置されており各所に怜衣さん、溜奈さん、柏谷さん……そして隣にハクが座っている。


 どうやら俺を呼びかけたのはハクのようだ。

 少し心配そうな表情を浮かべながら身体を捻ってこちらを覗き込んでいる。


「何って……ずっとソレ持ったまま動かないから心配したんだよ……。 平気?」

「あぁ…………。そっか、うん。全然平気。大丈夫」


 俺は手元にある端末を目にしてすべてを理解した。


 手元にあるのは斜め前に見えるモニターに映し出される曲を選曲するための機械――つまりカラオケの端末だ。

 俺たちは、いつかの終業式にゴタゴタがあったせいで行くことができなかったアミューズメント施設へとやってきていた。

 1階のゲーセンや上階にあるダーツ、ビリヤードなどを遊び、最後に選んだのはこのカラオケ。

 その個室に5人で入るやいなやそれぞれ持ち回りに歌っていったのだ。


 何巡か歌も終え、選曲が回ってきたのは俺の番。そこでふと考え事に耽ってしまいハクに心配されたのが真相ということらしい。



 考えるのはもちろん、昨日の引っ越し作業中に起こった柏谷さんとのゴタゴタ。

 あれから悶々とした夜を越え、いざ本日覚悟を決めて会ったらまったくといっていいほど彼女は普通だった。


 普通の表情で怜衣さんたちと話し、普通の様子で今日を楽しんでいた。

 まるで昨日のことが夢だったかのように、まるで俺の妄想だったかのように。


 一方俺としては、今日一日彼女と直接話すことができていない。

 たまに向こうから話しかけてくれるが、ついつい話題を変えて別の人に振ってばかりの一日だった。俺自身も、彼女をなんとなく避けていることを自覚している。

 ソレは当然、昨日のことを意識しているから。


 むしろ意識しているのは俺だけなのだろうか。

 彼女は普段からキスをしていて、一つや二つなんて気にするに値しないのだろうか。


 もちろん俺も、キスが初めてというわけではない。今日ここに居るハク、怜衣さん、溜奈さんとは向こうの不意打ちだったとはいえ全員とキスはしてしまっている。しかし、それも恋人関係という下地があってのこと。当時は仮だったとはいえ、好きという気持ちがベースにあったことは言うまでもない。


 けれど柏谷さんはそうではない。好きどころか真逆、嫌いと公言しているほどだ。

 あくまで俺の持論だが、好きの反対は無関心も嫌いも成り立つと思う。でなければ食べ物だって、好きの反対が無関心だとおかしくなってしまう。

 つまりだ。彼女は俺のことを嫌いなのだからあのキスは、一体どう思っているのだろう。数あるうちの一つか、それとも記憶すらしたくないということだろうか。



「そんなうつむいても説得力無いんだけどね……。 ちょっとセン、こっち向いて」

「え……? わっ!ちょっとハク!?」


 またも考え事に耽るために視線を下に落としていると、ふと彼女の手が顎に添えられて真正面を向いてしまう。

 正面には彼女の端正な顔。そんな彼女の顔がどんどん近づいてくることにキスされるかと思って目をキュッと瞑ると、コツンと額同士の当たる小さな衝撃が加わった。


「…………えっ?」

「んと……平熱、だね。 風邪ではなさそうだけど……もしかして、また記憶のことでなにか?」

「あー……うん、大丈夫。 ちょっと宿題のこと思い出して鬱になってただけ」


 本気で心配してくれている彼女を安心させようと、適当に思いついた言葉でごまかす。

 どうせハクにとってはバレバレの嘘だ。けれどそれ以上詰めるのを諦めたのか、何も言わず捻った身体を戻していく。


「コイツが調子悪いのってどうせあれでしょ? 夏バテでしょう?偏ったものばかり食べてるから」

「また偏食ばっかりしてるのかい!? センッ!」

「いや!そんなことは……………してる……かも……」


 まだ記憶が戻って数日だが、彼女らの朝ごはんは現状遠慮している。

 それは夏休みにより朝早く起きる理由が無くなったのと、俺自身が料理できるようになったから。

 その間食べてきたものといえばストックとして置いてあった出汁を使った煮物とか、卵料理とか、適当に肉とか……あれ?野菜なくない?


「まったくセンは……。今日のところはちょっと横になってるかい?ほら、ボクがギュッと抱きしめてあげるからさ」

「そうね。琥珀さんに甘えるとアンタも夏バテどころじゃなくなるでしょ。それが良いと思うわ」

「ちょっとちょっと!! それは私が許さないわよっ!!」


 キーン!とハウリングが響く中間に割り込んできたのは、今まで歌を歌っていた怜衣さん。

 彼女はマイク片手に両手を伸ばしたハクを止めるようにそのマイクを差し出す。


「ほら!次は白鳥さんの番でしょ! 曲始めるから抱きしめる役は私に譲りなさい!!」

「なんで抱きしめられるの確定なの!? 俺はそんなことしなくても平気だからね!?」


 渋々といった様子でハクがマイクを受け取った隙に間に入り込もうとする怜衣さんを、俺は慌てて宥めるのであった――――。


 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



 夜――――

 夕飯も風呂をも終え、今日も一日ドタバタだったなと思い返しつつ日課の動画サイトを開こうとした時、唐突に彼女はやってきた。



 ピンポーン


 何度も鳴って聞き慣れた、我が家のインターホン。

 それは怜衣さんらによる夕飯の差し入れだったり、母さんによる様子見だったりと、そんなに珍しくは無いものだ。


 けれど今回は、もう深夜になりうる遅い時間。それがベッドに寝転んだ俺に疑問をもたらした。

 宅配か……?いや、こんな時間はありえない。怜衣さんらもこんな遅くは来ないだろうし、母さんによる緊急の呼び出しだろうか。

 なんにせよ、どうせ身内だろう。俺は風呂上がり特有の上だけ何も着ていないまま、その扉を開けていく。


「はぁい……?」

「こんな時間にごめんなさ――――って、なんて格好してるのよ!」

「えっ? 柏谷さん?なんで?」

「そんなことより早く着替えてきなさいっ! それまで待ってるからっ!」


 俺が開けるよりも遥かに強い力で閉められる扉。

 別に男の上裸なんて、水泳とかでも普通だと思うんだけどな……。授業で一緒にはならないけど。

 俺は踵を返してタンスへ向かっていく。少し眠いせいで思考が鈍り、昼彼女を避けていたことを忘れたまま。







「それで、こんな時間にどうしたの?」


 俺が服を着て数分。

 彼女はテーブルに正座するように座り、出したお茶を眺めていた。

 俺も段々と目が覚めてきた。こんな時間に来るなんて考えてなかったから、つい普段どおり上裸で対応してしまった。


 まぁ柏谷さんはすぐ上に住み始めたし、ここに来るのは一瞬のことなんだけどさ。でも時間が時間だし変な感じになる。

 それに彼女もお風呂上がりなのか、その赤みがかった髪が湿気っている。それにダボダボした上下一体かつ袖なしのロングスカートの隙間から、チラチラと下着代わりのタンクトップが見えてちょっと色っぽい。


「……柏谷さん?」

「あぁ、そうね。 アンタ、今日ずっとあたしのこと避けてたでしょ」

「!!」


 一瞬息が詰まるように驚いたが、またどこかで『やっぱりバレてた』という意識もあった。

 今日一日、話しかけられることはあっても直接返事することはなかったし、そりゃそう思うよね……。


「まぁ……うん」

「どうして?」

「どうしてって……柏谷さんは何ともないの?」

「何が?」

「何って……ほら……昨日の……」


 昨日のことを思い出しながら申し訳ない気持ちを抱えて告げると、彼女は「あぁ」と声を漏らす。


「なんともってことはないけど……。でもまぁ仕方ないかなって」

「仕方ない? もしかして柏谷さんって昨日みたいなこと、何人ともやってたり……?」

「はぁ!? なんでそうなるのよ!?」


 だって、そのサバサバとした性格とか昨日のこと引きずらない感じとか。


「アンタねぇ……幼小中高と女子校だったのに、どうやってそうなるっていうのよ。普通にアレがファーストキスよ」

「えっ!? じゃあ、なんでそんな普通に……?」


 初……じゃない俺がこんなに気にしてるっていうのに。

 けれど彼女は一つ大きなため息をつきながら、ビッと目の前に指を突き刺される。


「普通じゃないわよ。昨日は散々驚いたし怒りも湧いたわ。 でも、もう済んだことだし気にしてもしょうがないかなって」

「済んだこと……かな?」

「えぇ、アンタもそうじゃない。怒りもしないし言いふらしたりもしない。 怜衣ちゃん辺りにでも泣きつけば私を排除するなんて簡単だったのにね」


 そんなの……考えもしなかった。

 そもそも排除なんて、どんな選択肢を与えられても思考すらしていない。彼女は怜衣さんたちの親友で……俺も友達だと、思っている。


「何だかんだ言ってるけど、あたしはアンタのことトモダチだと思ってるの。だから……そう引きずって無視するのはやめなさい。寂しいじゃない」

「…………ごめん」


 彼女はそんな前向きになっているのに、いつまでも昨日のことを引きずっている俺がどうしようもなく見えた。

 けれど彼女は俺の言葉にフッと笑ってゆっくりと近づき、頭に手を乗せてきた。


「いい子ね。そうやって素直な子は好きよ――――あっ」

「ん?」

「ちょっとアンタ……なんかゴミ付いてるわね。 右向きなさい右」


 優しく頭を撫でていた彼女は、ふと気づいたように右を向くように促してくる。

 ゴミ?さっきお風呂入ったばっかりなんだけど……。急いで服着たし、糸でもくっついちゃったかな?


「こんな感じ?」

「それくらいでいいわ。ジッとしててよね…………んっ――――」

「えっ――――」


 手を払う動作を見せる指示に従うように真横へと視線を動かすと、感じるのは手で弄るものではなく、頬へと触れる柔らかな感触。

 かろうじて目で捉えたのは、彼女が俺の肩に手を触れながら、顔を直ぐ側へと近づけているもの…………。


「ふぅん……これがキスね……。案外悪くないじゃない」

「な……!な……!な……!!」


 一瞬だけ触れてすぐに離れた彼女は、自らの口元へ手を当てながらペロリと一周舌で唇を舐め取る。

 その唐突な、予想できない行動に俺はうまく喋ることができない。


「なによ、そんな変な顔して。 昨日一回やっちゃったし頬くらい今更じゃない」

「で……でも……!! アタッ――――!!」

「あ~も~、うるさいわね! これくらいトモダチならフツーのコトよ!」


 『今更でもなんでわざわざ』

 そう言おうとするよりも早く、彼女は額へと指を近づけそのまま勢いよく弾かれた。


 デコピンだ。

 力持ちでもある柏谷さんのデコピンをモロに受けた俺は痛みを堪えるように額を抑え、ようやく収まってくると彼女は扉の近くまで移動していた。


「バーッカ! それじゃ、おやすみっ!!」


 ベーッ!と、俺に向かって舌を出した彼女は返事を待つこと無く部屋から出ていってしまう。

 何故かもわからぬ行動で呆気にとられた俺は、誰も居なくなった扉を見つめたまま、未だ熱が保っている気がする頬へと手を触れるのであった。

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