049.真実


 彼は、記憶を失って変わってしまった――――。


 それは悪い方向ではなく、いい方向へ。



 ボクたちが1年生の頃、まだ半年ほどしか経っていない程度の過去のこと。

 彼はずっと何かを気にしているようだった。表面上はボクと変わらず接してくれるが、それでもふとした時に辺りを見渡すのだ。


 気付いたのは1年生の2学期頃からだったか。最初は気になる子ができたかと思って嫉妬心に駆られたりもしたが、よくよく様子を伺ってみればそうではなかった。

 何かに怯えていたのだ。時折怯えたような目をし、しきりに周囲を気にする様はまさしくそれだった。


 何度聞いても彼は「なんでもない。大丈夫」だと笑ってくれたが、間違いないだろう。

 その証拠として1年が終わるまでにどんどん表情に影が落ち、目の隈も酷くなっていったのだから。

 しかし無理矢理聞いても口を割らず、叔母さんに聞いてもわからないのだから完全にお手上げだった。



 だから、ボクには何もできなかった。

 何があったのか確かめることも、助けることも、そして、好きだと告白することも。




 しかし、そんな何もできないボクでも、ひとつだけできる事があった。


 それは勉強をすること。

 もし彼が何かの重圧に押しつぶされて家から出られなくなっても、もし全てが嫌になって学校さえも辞めてしまっても、もし道を踏み外してしまって素行不良になってしまっても…………ボクが彼を支えればいい。

 炊事や洗濯などの家事もボクがすればいい。金銭的問題もボクが稼げばいい。溜まってしまったストレスもボクが全て受け止めればいい。


 幸いボクには下地があった。日常的にある程度勉強はしていて成績も良かったから、更に努力を重ねたら案外簡単に全国上位にまで食い込むことができた。

 スマホを構え、最高の気分で撮った全国9位という数字。これで彼を支えられる。これでボクも胸を張って彼と相対できるのだと、その時は有頂天になっていた。



 ――――そんな時やってきた事故のメッセージ。

 叔母さんからの連絡に、まさしく天から地に落とされた感覚だった。

 幸い命に別状は無かったものの、記憶に障害が確認されたと。 詳しく聞くと消えたのはここ1年の記憶らしかったが、それでもボクは夜さえも眠れなかった。


 1年の記憶喪失といってもそれは確認された範囲だけ。

 もしもボクのことを忘れていたらどうしよう、という不安がずっと頭の中を駆け巡っていた。

 この生まれてから16年近く、殆どの時間を共に過ごしてきた彼。もしその全てを失われていたら、ボクは一体どうすればいいのだろう。

 怖すぎて恐ろしくて、最後まで確認しに行くことができなかった。彼のことが大好きな人間として真っ先に向かわなければならないのに、そんなボクの女々しさがイヤだった。


 だが、タイムリミットはやってくるもの。結局会いに行くことができず、新学期というタイムリミットがやってきた。

 ボクは朝一番に、誰よりも早く学校に来た。目の前の席は彼のために取り、やってきてくれるのを待つ。

 それが臆病者のボクが行った、精一杯の行動だった。


 そうして見えてくる、彼の姿。

 パッと見、記憶を失っている様子はなかったが、教室に入るやいなや辺りを見渡していた。

 目が合いそうになったタイミングでボクは慌てて外を見る。ボクのことを忘れていないことを願いながら――――。


「よっ、ハク。 早くから居てくれて助かったよ」


 かけてくれたその言葉は、心の底からの安堵と幸せを運んでくれた。

 キミがボクを気付いてくれた。覚えていてくれた。頼ってくれた。

 それだけでもう満足だった。最高の笑顔で返事をしようとしたものの慌てて引き締める。危ない、最後の確認を……。


「ん? キミは…………誰だい?」


 笑顔から一転、不安そうになるその顔を見て確信した。

 よかった、間違いなくボクのことを覚えている。そして、彼の様子は昔と変わらない。


「ふふ……。いやだなぁ、冗談だよ、セン――――」


 ボクは満面の笑みを浮かべる。愛おしい彼は、無事だったのだ。







 幾ばくかの時を過ごし、確信した。彼は本当に1年丸々の記憶を失っていた。

 ボクとの思い出すら無くなっていたのは寂しかったが、もともと彼の様子がおかしくてあまり大々的な思い出は作れなかったからそこはいい。

 それより喜ばしいことに、その表情は悩みが一切ないほど明るいものに戻っていた。


 いつかの恐れているような表情は全く見えず、その前の心の底から楽しんでいるような表情。

 ボクにとってはそれだけで満足だった。彼が屈託なく笑ってくれる。ただそれだけで――――。




 ――――しかし、彼にはいつの間にか彼女ができていた。



 信じられなかった。


 許せなかった。


 いつからと聞くと春休みから。その時は彼を案じてほどほどの距離を取り勉強していた頃。

 まさかと思った。まさかそんな短期間で彼を落とし、付き合うだなんて。


 当然怒りも込み上げたし、彼女たちをどうしてやろうかとさえ思った。

 しかし話していくうちに、悪い子でもないということを知る。ただ彼のことがひたむきに大好きな2人。

 けれどずっと好きだったボクもただ見ているだけじゃない。ファーストキスがまだだという事を知って、奪ってやった。


 初彼女という座は奪われてしまったが、2人同時に付き合うということに勝機を見出した。

 今はそれでいい。それも彼を愛するボクという者の役割だ。それだけ彼が魅力的だという証だし、ちょっとくらいの気の迷いは目を瞑ろう。

 けれど同じ土俵ですらないのは看過できない。ボクもそこに入っていって、いずれボクだけを見てくれるようになってくれればいいと――――。




 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



「ぁ…………ぁ…………!」

「セン……?」


 ようやく訪れた2年の夏休み。

 ボクたちは、皆の総意で遊びに行こうと放課後の学校から街への道を歩いていた。

 行き先はアミューズメント施設。彼も待ちに待った夏休みでそのテンションはかなり高いものとなっていた。


 そんな中、ふとルートを変えようとして踏み出した彼。けれど目の前には大きな車が。

 全く気付いていない彼に慌てて声をかけたものの、それはブレーキをかけるのも遅くぶつかる勢いで、目の当たりにした彼も動ける状態ではない。

 容易に想像できる最悪の未来に目を瞑ったものの、手が伸びて助けたのは、最近やってきた転校生だった。


 風邪を引いた彼を助け、そんな彼を大嫌いと公言する彼女。

 嫌いなのはいかがなものかとも思ったが、大好きよりかはいい。それに、最近あの姉妹もなんだか悪い子じゃないように思えてきた。

 少なくとも好きという気持ちに間違いはない。更にボクのことも尊重してくれる。




 そんな5人で歩く道中、まるで春の再来かのように事故りかけたものの、直前で回避することに成功したはいいが、すぐに彼の様子がおかしくなる。

 姉妹の顔を見ると同時に信じられないものを見た顔をし、慌てたように目の前にしゃがんでいたボクへと抱きついてきた。


「わっ……! ちょっとセン!? どうしたんだい!?」


 抱きついてくれるのは本当に嬉しいが、ここは公衆の面前だ。さすがのボクにも恥ずかしさというものは備わっている。

 けれど彼に問いかけはするものの、その顔が上がってくることはない。ボクの胸にうずくまるように、そして手が震えている。


「ハク……ハク……」

「う、うん。 ボクだよ」


 ギュッとボクに抱きつきながらも声が聞こえてきた。

 これは……恐怖? さっき事故りそうになったから?


「俺……思い出した」

「思い出す……? 何を?」

「…………1年。忘れてた、1年全部を」

「!!」


 それは、思わぬ報告だった。

 突然の報告にボクは喜びが湧き上がると同時に、不安さえも浮かんでくる。

 1年の頃の彼は……何かに怯えていた。全部思い出したということは、もしやそれさえも…………


「よかっ……いや、大丈夫かい? 何か震えてるようだけど……ここにはもう怖いものなんてないんだよ」


 まるで赤子をあやすかのような、優しい言葉。

 そうでないと、この震える身体が壊れてしまいそうだったから。


「俺……ハクにも言ってなかったんだけど、ずっと視線が怖かった」

「視線?」

「ずっと誰かに見られてるような……家でも、学校でも、ずっとそんな感覚がして、怖かった」


 視線…………。

 思わぬ形で知ることができたが、それが記憶を失う前に怖がっていたものだろうか。

 けれど、そんなのただの思い込みじゃ……?


「それだけじゃない……。常に後ろには人影があった気もしたし、現に窓の外に影が見えた」

「それは…………」


 つまり、いわゆるストーカーというもの?。

 まさか彼がストーカーに悩まされていただなんて………。


「なんとか耐えてたけど……後ろから着いてくる感覚が怖くって、逃げた。 そしてあの日事故る寸前、見えたんだ。 その影の……2人を……」

「誰……だい……?」


 彼はゆっくり腕を上げて掌でその人物を差す。


「…………星野……さん?」


 ボクは、差された方向の彼女らを見る。けれど2人は顔を伏せて僕たちと目を合わせようとしない。

 それはまるで、彼の言葉が真実だと告げているようだった。

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