029.お姫様抱っこ


「へぇ……。案外片付いてるのね」


 ……なんで


 …………なんで俺は今日転入してきた女の子を部屋に入れているのだろう。



 風邪により早退を余儀なくされた俺は、ロクに歩けもしない身体を柏谷さんの手も借りて何とか自宅へと帰ることができた。

 手……正確には背中を借り、死にそうになっていた俺を助けてくれたのは彼女のお陰だ。感謝もしている。


 けれど、まさか家の中まで入ってくるとは思っていなかった。

 彼女は怜衣さんと溜奈さんの友人、そしてそんな2人と付き合っている俺は嫌われている。これは本人の口から聞いたから間違いない。俺もその気持ちは重々理解している。

 ならばこそ、最低限の仕事を終えたら帰ると思っていたのに……こうして家にまで入ってくるとは思いもしなかった。


 そんな彼女が俺を背負ったまま器用に靴を脱ぎ、足を踏み入れようとしたところで俺は「あっ」と声を上げる。


「さすがに家の中では大丈夫だから……」

「そう? まぁベッドまで歩くだけだしね」


 たかだか数メートルだし、このままだと俺の靴が脱げないまま入ってしまうからそれは回避したい。


 フローリングに足をついた彼女はそっとしゃがみ込み、俺を優しく立たせてくれる。

 そんな後ろ姿にお礼を言い、自らも靴を脱ぐ……が、身体を曲げるごとにギシギシと脳内で錆びついたロボットが動くように音が鳴り、強く身体が痛む。


 あれ、こんなに靴の脱ぎ着ってしんどかったっけ?なんだかどんどん酷くなってない?


「………………よし、できた」

「随分しんどそうね。症状は?」

「んと……痛みと怠さ、身体も熱いし視界が歪む」


 とりあえずパッと思いつくのはこれくらいだろうか。

 もっとしっかり考えたら細かな症状も分かるだろうが、残念ながらそこまで頭が回らない。


「重症ね、風邪薬は?」

「……ない」


 残念ながらそういった緊急で必要なものは一切用意していない。

 だって高いし、何を買えばいいかわからないし、めんどい。


「そう、ベッドまで行ける?」

「よゆうっ……! …………っと」


 軽口を叩いてみせるが、玄関とフローリングの段差を上るだけで一苦労だ。

 彼女もそれに気付いただろうが、ここからベッドまでは段差もなく邪魔するものもない一直線。壁伝いに歩けば問題なく行けるだろう。


「手、必要?」

「大丈夫。一人で行ける」



 一歩、また一歩と大地を踏みしめるように歩みを進める。

 最初の肩を支えてもらった時よりも遅い、亀以下の速度。

 彼女は玄関側で見てくれているが、この遅さはイライラさせてしまうだろう。早くたどり着かねば。


「――――ぁれ……?」


 キッチンを越え、真ん中の部屋にたどり着いたその時だった。転けないように壁に右手を付け前かがみになって歩いていると、突然酸欠になったかのように視界が大きく歪んだ。

 平衡感覚がなくなり、フッと支えにしていた壁の感覚が無くなっていく。


 視界が天を向いたことでどうなったかようやく気づく。左側に身体が大きく傾いたのだ。

 そのことに気がついても身体は動いてやくれない。俺はバランスを崩したまま、振り子のように大きく重心がずれ、直ぐ側に設置してあるテーブルの角に頭を勢いよくぶつけ――――



「ったく……。 言わんこっちゃないわね」

「…………あれ?」


 ――――ぶつけなかった。

 俺の両肩は優しい感覚に包まれ、それを支えとしてまっすぐ立ち上がるように戻される。

 これは、柏谷さんの手だった。彼女は俺がテーブルにぶつかるよりも早く手が伸び、頭をぶつける寸前に支えてくれたのだ。

 けれど目眩が酷くなった俺に自ら立ち上がる力など存在しない。姿勢を正したはいいが脚に力を込められなくなりその場に座り込んでしまう。


「アンタ、あたしが居なかったら死んでたかもしれないわよ。 そこんとこわかってる?」

「…………ぁぃがと」


 身体も熱くなり、意識が朦朧とした俺の口はうまく動いてくれない。

 彼女にその言葉が聞こえたかはわからないが、その手はゆっくりと下に降りていき、俺を床へ仰向けになるよう寝かされてしまう。


 あぁ……冷たいフローリングの床がいい感じ。頬とかひっつけたらちょうど気持ちいい。

 もう離れられない。今日はここで一日を過ごそう。

 こうやって地べたで寝るなんて初めてだしよろしくも無いが、もう動けないのだし仕方ない。しばらくフローリングさんに熱を吸ってもらうことを期待する。


「ったく、見てられないわ。 そのままジッとしてなさいよ」

「…………?  !?」


 タコのように床に張り付いて1日を終えようと思っていたところ、謎の言葉が掛けられた直後身体が大きく浮き上がる。


 仰向けのまま、宙に浮くように。背中と膝の裏にはそれぞれ差し込まれた何かが2本。

 その唐突な浮遊感に何事かとうっすら目を開けると、赤みがかった髪を持つ少女の顔が直ぐ側にあった。


「最初からこうしておけばよかったわ。 ほんと、あたしが居なかったらどうなってたことか……」


 ブツブツとすぐ近くから声が聞こえる。

 と、同時に身体が動かされる感覚が。これは……お姫様抱っこか。何故か俺はお姫様抱っこされているようだ。


「――――よし! これでいいわね。 アンタ、もう動くんじゃないわよ!!」


 ポスン。と何処かに降ろされる感覚があったと思ったら、床だと思ったそこは暖かくて柔らかい物の上。

 頭には床以上に柔らかな何かに包まれているようだった。


 そこはもちろんベッドの上。どうやら俺は彼女にお姫様抱っこされた上ベッドまで運ばれたらしい。


「ぁしたに……さん?」

「喋らなくていいっての。 もう起きてるのも辛いでしょう?大丈夫だから、眠りなさい……」


 そっと冷たい手が額に乗せられる。

 気持ちいい……そっか、大丈夫なんだ……。


 優しげな口調で語りかけられた言葉を受け、俺はゆっくりと目を閉じる。

 最後に聞こえた音は、『チャリッ』っと金属が触れ合う小さな音と、扉を開閉する音だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る