016.淡い香り


「セン……! どういうことだい!?」


 壁ドン。

 ハクが俺と彼女らの関係を知ってから数瞬の後、俺は壁ドンされていた。

 もちろん隣人へのクレーム的な壁ドンではなく両者が向き合ってする方の。クレームというのは言い得て妙かもしれないが。


 彼女が手を引いて連れ出されたのは我が家を出てすぐ。外と部屋を繋ぐ扉へ手を叩きつけるような形で俺に迫ってきた。

 俺の目の前にはハクの美人な顔。長いまつげと通った鼻筋、グリスを塗ったようなプルンとした唇につり上がった眉。そんな彼女が真剣な表情で俺の瞳を射抜いてくる。


「えっ……あっ……え~っと……」

「何故1人どころじゃなく2人と……一体いつからだい?それになんでボクに教えてくれなかったんだい?」


 返事をするよりも早く畳み掛けるように問いかけてくるハク。

 自分から言うとは聞いていたが、まさかこんなタイミングで話すとは思いもしなかった。もしかしたら売り言葉に買い言葉的な感じで出たのかもしれないが、知られてしまっては仕方ない。


 耳の直ぐ側でパキッと骨の鳴る音が聞こえる。おそらく力いっぱい握りこぶしを作ったのだろう。俺は伸ばされている肘に手をやって壁ドンされている手を降ろさせる。


「……わかった。全部教える。 とりあえず、戻らない?」

「ううん、部屋だと2人の補足も入るからいらない。 ボクはキミの口から聞きたいんだ。 いいかい?」

「…………了解」


 そこに関しては俺も同意だ。

 補足が入ったらまた話が脱線することも頻発するだろう。それなら2人きりで話したほうがスムーズに済む。


「まず、俺が記憶喪失なのは知ってるよね?」

「もちろん。普通なら信じがたい話だけどセンの言うことだ。微塵も疑っちゃいないよ」

「ありがと。 それで退院したその日に俺も聞いたんだけど……2人ともと付き合ってるらしい。事故の数日前から」


 事故前に付き合って、初デートのときにちょうど事故った。

 俺があの2人と付き合うなんて信じられないが、事故現場に居合わせてその後の処置をしてくれたことは間違いない。警察を交えた現場検証でそれは証明されている。ならばやはり本当に付き合っているのだろう。


「ボクが模試で忙しかったタイミングだね……。 ボクが言うのはアレかもしれないけど、キミは知らないのだからやり直そうとか思わなかったのかい?」

「もちろん言ったよ。でも別れたくないって泣かれて……」

「そっか……」


 当時のことを思い出して俺が顔を落とすと同時に彼女も視線を下げる。

 あの時の彼女らはかなり必死だった。だから俺も受け入れることを選んだわけだし、今更やっぱりなんて言うつもりもない。


「なら、まっさきにボクへ言ってくれてもいかったんじゃない?親友なんだしさ」

「それは怜衣さんのお願いで。自分から言うから待っててって。それが始業式の日だったからマラソンしてる時に言ったと思ったんだけど……」

「なるほど。 そっか、だからあの日ボクに近づいて……」


 何か心当たりがあったのか唇に手を当て何か考え出す。

 そうだ、ハクなら何か知ってるかもしれない。


「ねぇハク、俺からも一つ聞きたいんだけど」

「なんだい?」

「俺の記憶が無い期間……1年の頃あの2人と俺って接点あった?」

「…………いや、ボクたちとはクラスも違ったし、知ってる限りでは無いかな。だから突然こんなこと言われて驚いたんだけど」


 ハクも知らないか。1年の頃の俺らは同じクラスだったようだし、ハクとは中学から変わらず休み時間とかは一緒にいただろう。

 それなのに知らないとなると、彼女の知覚外で俺は知り合ったということだ。


「まぁ……うん。とりあえず事情はわかった」

「ほっ――――」

「――――でも! でも……もう一個聞きたいんだけど、いいかな?」


 とりあえず理解を示してくれたことに安堵したのも束の間、彼女は下げた視線を勢いよく上げて俺との距離を詰めてくる。


 その小さな両手が俺の肩に触れ、見上げるようにして見つめてくる瞳はほぼ接触寸前だった。

 まるで……というよりほとんど抱きついているほどの距離。こんな距離の詰め方は初めてで思わず目を逸してしまったが、彼女は気にもしていないようにしっかりと俺の目を追ってくる。


「な……なに……?」

「センは2人のことどう思ってるんだい? 気付いたら知らない女の子が彼女で…………2人のこと好きなのかい?」


 好き――――

 確かに2人は相当可愛いし優しい、俺にとってはもったいないほどの理想の彼女ではある。

 しかし、それと好きという感情は別問題だ。華麗から来る感情と愛情から来る感情を一緒にしてはいけない。

 ならばどうか。俺は2人のことをどう思ってるのか。


「…………わからない。魅力的だとは思うけど、まだ知ってから1月も経ってないし、好きという感情では……無いと思う」

「…………そっか」


 付き合っている手前、お世辞でも好きだとは言うべきだろう。

 しかし相手はハクだ。ウソなど通用しないし何よりウソをつきたくない。

 俺は自ら混乱する感情を赤裸々に吐露する。彼女たちには悪いがこれが今の俺の感情なのだ。


「とりあえず、わかったよ。理解もしたし了解もした。 でも最後にもうひとつだけ、いいかな?」

「なに?」

「君たちは……その……キスとかそういうのは、したのかい?」

「キスぅ!?」


 彼女の口から思いもしなかったことを聞かれて声を荒らげる。

 まさか親友からそんなことを聞かれるとは。当の聞いた本人だって目を逸しながらほんのり顔を紅くしている。


「そんなの全然……!むしろ頭撫でられた程度だし……!」

「そっか……。そうなんだ……。 よかった……。 じゃあボクからは以上。部屋へ戻ろっか。泉」

「え? あぁうん……」


 『泉』。いつも『セン』と呼ぶ彼女がちゃんと名を呼んだことに驚きつつも、その差し出された手を取って背後の扉を開けていく。

 ハクにとっては言いたいこともいっぱいあるのだとおもうが、とりあえずは了解してくれた。きっと殴られたり絶交なんてことにはならないだろう。


「ごめん2人とも、またせた……って、ぁ……」


 扉を開けて部屋を見れば、今まで朝ごはんなどで散らかっていたキッチンがさっぱり綺麗になってしまっていた。

 シンクに入れていた洗い物も完全になくなっており、汚れどころか水っ気すらない状態で置かれている。

 そんなピカピカなキッチンの側にはハクの持ってきたエプロンを身につけて手を洗うレイさんの姿と、向こうの部屋でテーブルを拭いている溜奈さんの姿があった。

 もしかして、俺達が居ない間ずっと掃除してくれてた?


「あらおかえりなさい。 ちょうどいいところにあったからエプロン借りちゃったわ。ごめんなさい、これ白鳥さんのでしょう?」

「いや、それは全然いいんだけど……掃除してくれたの?」

「ちょうど手持ち無沙汰で……。 出かけるって言うからついでに……! 不味かった……ですか?」


 向こうの部屋からちょこんと顔だけ出して溜奈さんが問いかけてくる。


「いや、すっごく嬉しいよ。 ありがとう2人とも」

「気にしないで頂戴。好きでやったことなんだから」

「~~~~!!」


 怜衣さんの言葉に溜奈さんは首を縦に振る。

 洗い物が面倒でズボラな俺にとってはかなり嬉しいことだ。


「ねぇ、星野さん」

「白鳥さん?もう話は終わったの?」


 俺の一歩前に出たハクは、手を拭いている怜衣さんと向かい合う。

 一瞬また険悪な雰囲気から始まると身構えたがそうではなく、フラットな雰囲気。少なくとも喧嘩は起こりそうにない。


「うん、付き合った経緯やセンがどう思ってるか聞いたよ」

「そう……。ごめんなさいね、すっかり覚えてない泉を引き止めるにはこの方法しか無かったの」

「記憶が消えても別れたくないって至った感情も、ある程度察しがつくよ。2人同時なのは驚いたけど……。 それで、ボクからも一個いいかな?」

「何かしら?」

「……セン、ボクの横へ」


 俺?

 ハクは振り向いて俺を呼んだと思ったら自らのすぐ右側を指差した。

 そっち来いってことかな……?


「ごめんね……。でも、好きじゃないならいいよね……?」

「えっ――――、~~~~~!!!」


 スッと耳元にハクの手が伸びてきたと気付いた時には、もう全てが動いていた。

 彼女は隣に立った俺の頭を自らの元に引き寄せ、一気に目の前が真っ暗になる。


 真っ暗な中感じるのは唇への柔らかな感触。少し湿気って、でも決して嫌ではない感覚。

 けれど今の俺は唐突なことで驚きが勝り、それが何なのかを理解することができない。


 何事かわからず混乱し、気がついた時には顔全体が何か柔らかな感触に包まれ、視界が一気に暗転したのだ。

 後頭部には彼女の手が力いっぱい押し付けられ、胸さえも思い切り押し付けられているのだろう。抵抗することのできない俺は心地の良い圧力に襲われる。



 何事かと混乱の真っ只中にいるそんな時、、一足先に正常の動作を取り戻した嗅覚が全てを教えてくれた。

 これまでに何度も嗅いだことのある親友の服から香る特有の香り。少しだけマスカットを彷彿とさせるようなフルーティーな香りだ。そんな感覚と、時々髪から漂ってくる淡い香りが鼻孔をくすぐる。


 キス――――。

 この身体は彼女の体全体で包まれた上、耳元に添えられた手によってキスされていたのだ。

 それを理解する頃には拘束していた腕の力が緩み、ゆっくりと顔を上げていく。

 何十分かとも思われたが、10秒ほどの強い強いキス。「プハッ」と息を吐きながら見上げた彼女の頬は紅潮し、それでもニヤリと妖艶な笑みを俺へと見せつける。


「ハク……!?」

「セン…………」


 自然に背中へと滑った腕が再度俺の後頭部に当たり、今度は力いっぱい抱きしめられる。


 一年前とは違い、成長して大きくなった胸の中。その柔らかな感触が俺の顔いっぱいに広がり、抵抗する意思さえも奪ってしまう。

 彼女は優しく俺の頭を抱きとめながら髪を撫でつつ怜衣さんへと視線を移す。


「いくら付き合ってるって言ってもセン自身に恋愛感情が無いんじゃあ、これくらいいいよね?」

「白鳥さん……」

「妹さんもゴメンね。 でも、君たち姉妹がそう動くならボクだって我慢しないよ」


 彼女は一息ついて告げる。俺を抱きしめながら。

 まるで迷いが吹っ切れたように、まるで二度と離さないかのように。


「ボクは、泉のことが大好き。中学から……ううん、出会ったときから。 だから……君たちには渡さない。ボクはセンのもので、センはボクのものだ」

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