014.お互いにくっつかなければ


 なんだか香ばしい匂いがする。

 これは……醤油だろうか。醤油を熱したときに嗅ぐことのできるあの仄かな香り。

 それに混じって炊きたてのご飯の香りまでもが漂ってくる。


 あぁ……そういえばベッドに接する窓を開けたまま寝ていたんだった。どこか近くの家で朝ごはんでも作っているのだろうか。

 いいなぁ朝ごはん。一人で全てをこなすようになって、朝起きたら朝ごはんができてたり洗濯をやってくれる母のありがたみが本当に身にしみた。

 最初のうちは一人暮らし最高!何でも好き勝手できる!!なんて喜びもしたのだけれど、いざ始まってみると自分がやらないと誰もやってくれないという当たり前のことに気がついて、本当に毎日が大変だった。


 もう面倒すぎて毎日パン。そして夜もスーパーの半額弁当で良いってレベル。

 実際、ここ数日はそうやってサボッ…………ちょっと合理的な方法を取ってきた。



 今日は高校2年生初めての一週間が終わり、ようやく訪れた土曜日。

 ようやく毎日やってくる辛い朝と誰も起こしてくれない恐怖を忘れられる日。今日は12時まで眠ってやると決めたのだ。

 そうやって惰眠を貪るため、昨夜は一人動画サイトを深夜まで魅入っていた。

 家にネット回線とルーターを用意してくれるなんてさすが記憶にない過去の俺。ちゃんと未来で堪能してるよ。


 なんてバカなことを考えながら寝返りをうつと、漂ってくる香りが一層強くなる。

 あぁ……さすがに惰眠を貪るにしてもお腹は空いた。でも朝食用のパンは買い溜めしてないしな…………。

 それに、なんだかジュージューと食材を熱する音までもが聞こえてくる。向かいの家ってこんな音が届くほど隣接してたっけな?もしかしたら向こうも窓を開けて調理とかしてるかもしれない。

 でもやっぱり、お腹すいた。食べるものが無いけどどうしよう。もうちょっと眠ってたらこの空腹のピークも過ぎてくれるかな?


 俺はこれ以上香りを嗅がないように掛け布団でガードするように頭から被る。

 これでようやく空腹を刺激されることなく眠ることができる――――。そう思って安眠しようとした時だった。ふと気づけば窓とは反対方向……玄関や食事用の部屋がある方向からミシッ……と床を踏む音が聞こえてくる。


「もしも~し。起きてますか~?」

「ぅ……ぁ…………」


 なんだか上の方から声が聞こえてくる。

 人…………なんでここに……。あれ?そういえばここって実家だったっけ?家だっけ?

 もはや夢と現実の中間にいるせいでほとんど頭が動かない。また母さんが起こしに来たのだろうか。いつの間に実家に帰ってたか知らないけど今日は安眠できるはずだから放っといて。


「これはほとんど寝てるね。ほら、起きて。朝ごはんできたよ」

「ぁさ……ごぁん……?」


 眠さのせいでもはや呂律すら回らない。

 何を作ってくれたって?朝ごはん?誰が?母さん?


「いつまで眠っている気だい?早く起きないと冷めちゃうよ」

「もうちょっと……置いといて……母さん……」


 休みなんだからもっと寝かせろと。そう抗議をする為芋虫みたく布団に包まると、向こうも負けじと俺を揺する手が伸びてきた。

 今何時か知らないけどもっと寝かせて……。もし昼だとしたら……夕方まで寝ることも覚悟するから……。


「ボクのことをオバサマだと思ってくれるのは信頼してくれてるみたいで嬉しいけど、せっかく作ったんだから起き……てっ!」

「んぁ? …………!! さ、さむ!!」


 ふと揺する手が離れたと思ったら、今度は唐突に三半規管がこの身が回転していることを教えてくる。

 次第にほぼ眠っているせいで力の入っていない手から布団もなくなっていき、ベッドの上に残されるのは俺の身一つ。

 4月とはいえまだ朝は寒い。しかも窓を開けていたら尚の事だ。俺は包まっていた布団がなくなったことで朝の寒さをダイレクトに感じ、思わぬ刺激に声を荒らげる。


「なにする!母さ――――」

「ようやく起きたのかい? お寝坊さん」

「――――ハク?」


 強硬手段に出た母さんに一言告げようと思ったものの、目の前で取り上げた布団を手にする少女に目を丸くする。

 その姿はジーンズに黒いシャツ。そして一見男子でも着れるような服とは真逆の、可愛らしい小花があしらわれたエプロンを見事着こなすハクがそこにいた。


「うん。モーニングコール……いや、ぜんぜん違うね。通い妻みたいに起こしに来たんだけど、どうだい?目が覚めたかい?」

「まぁ、うん。 …………ってなんで!?鍵は!?」


 思わず同意しかけたが、なんでハクがここに!?

 昨日は確かに鍵を掛けて寝た。開けっ放しにしてた窓だって柵が設置されてるから入れるわけがない。

 ハクが来る道理も入ってきた仕組みもさっぱりわからない。


「それは教えてもいいけど……そうしたらおしゃべりに夢中になりそうだ。ご飯食べながら話さないかい?」

「もちろん……いいけど……」

「決まりだね。ほら、顔洗ってきて。 ボクはちゃんと待ってるから」


 彼女は未だ軽く寝ぼけている俺の手を引いて立ち上がらせ、洗面所へと背中を押していく。

 俺は妙に楽しそうな彼女の笑みを見ながら、されるがままに顔を洗いに向かった。



 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



「つまり…………母さんの策略と」


 俺はテーブルに並べられた朝食をつつきながら今日来た理由を聞いていた。


 聞いてみれば簡単なことだった。

 ハクと母さんの世間話で、ハクが俺の偏食具合を喋ったせいで様子を見てくれと頼まれたらしい。

 その一環で合鍵を借り受け、ウチまで来たわけだ。


 まさか休日一発目からやってくるとは……。しかも顔洗って気付いたけどまだ7時だし。


「策略という言い方は正しくはないかな?オバサマはセンのこと心配してたんだから」

「心配ねぇ……俺には一切そんな素振りを見せないけど」

「表立って言うことでも無いだろう? ところで朝ごはんはどうだい?おいしい?」


 俺は目の前に並べられた朝食を今一度眺める。

 そこにはご飯に味噌汁、肉じゃがに焼き魚というラインナップだ。

 ザ・和風。そこにケチをつけるつもりは全く無いのだが、まさか朝からこんなに手の混んだものが食べられるとは思わなかった。


「ん……美味しいよ。でも食材は?冷蔵庫何もなかったよね?」

「そこはもちろん、何もないことを踏んで家から持ってきたのさ。肉じゃがは昨日の残りだけどね」


 そう簡単に言ってくれるが、ウチで作るのは大変だったろう。

 本当に最低限の調理器具しかない上に向こうの家と比べたら天と地のキッチンスペースだ。もはや俺も自分で作るのを諦める程の。


「ありがと。まさかこんな豪勢なものが食べられるとは思わなかった。……ホント美味しい」

「フフッ。そう言ってくれることが一番嬉しいよ。 何なら毎週作ってあげようか?」

「それは……毎度はハクが大変でしょ。 それにもうちょっとだけ……ほんのちょっとだけ寝たかったし……」

「セン、本音がダダ漏れだよ。昼まで寝るつもりだっただろう?」


 バレたか。

 7時はさすがに……。目覚めた時も異様に眠かったはずだ。だって夜ふかしした上に起きる時間は大して変わってないのだから。


「そいや、なんかさっき通い妻とか何とか言ってなかった? あれどういうこと?」

「えっ!? あ……あれかい? ほ、ほら!甲斐甲斐しく寝てる隙に朝ごはんを作るってぽいだろう? だからボクもいつか結婚したときの為にそういう気分をだね……」

「結婚…………」


 なんかやけに慌ててる感があるが、きっと特に理由もなく出た言葉だろう。

 でも、結婚か……。ハクもいつか結婚するのかな?そして毎日この美味しい味噌汁を、何処かの誰かに振る舞うのかな……?」


「セン……?」

「ぁ……。いや、なんでもない」

「いや、その顔はなんでもないって顔じゃぁないよ。 ……あぁ、なるほどね」

「ハク?」

「センはジッとしてて」


 彼女は何を思ったのか手にしていたお箸を置き、立ち上がる。

 そしてグルリとテーブルの横を通っての後ろに回り込み、両肩に手を添えてきた。


「そんなに心配しなくても大丈夫さ。少なくともキミが結婚するまではボクも結婚しないから、寂しい思いはさせないよ」

「べ……別に俺はそんなんじゃ…………」

「それともアレかい?もしお互いに結婚できなかったら……その……僕たちが…………くっつく……かい?」


 途切れ途切れになりつつも発する『くっつく』という言葉。

 誰と誰が?……俺と……ハク?


「それは……どういう?」

「!! もうっ!こっち向かない!!」


 頭のすぐ上から降りてくる優しい声につい振り向こうとすると、両耳を掴まれて強制的に前を向いてしまう。

 無理やり動かされた目の前には美味しそうに並べられた朝食の数々。これを毎日食べられるなら……悪くないのかもしれない。


「まぁ……うん。そういうのもいいのかも、ね」

「だろう? 約束だ。もしお互いに結婚できなかったら……だね」


 彼女は俺に触れていた手を離れてさっきまで座っていた向かい側に戻っていく。

 約束……か。もしかしたらこれまでの1年、誰かと何かしらの約束をしていたのかもしれない。けれど今の俺には思い出すことは叶わない。今度こそ、絶対に忘れないようにしないと。


「よしっ! それじゃあセン、今日は何をするかい?」

「え、決めずにここに来たの?」

「もちろんさ。センがどんな予定を立ててるかもわからないし、何だったら一日ゴロゴロとしてもいいしね」


 一日ゴロゴロかぁ……惹かれるなぁ。夕方まで寝るという背徳的なこと、憧れる。


「特に予定もないし記憶探しも切羽詰まってないし、今日はゴロゴロ――――」


 ゴロゴロとする。そう決めて了解を得ようとしたその時、部屋中に聞こえるのはインターホンの音。

 誰だ……?宅配は届く予定はないし……母さんが心配して来たのか?


「誰だろ……」

「あぁ、待って。ボクが出る」


 俺も行く手を遮って彼女は玄関へと向かっていく。

 いやぁ、やってくれるって助かるなぁ。相手は長年一緒にいる友人だから他の人と違って色々と気にすることも少ない。


 …………あれ?待てよ。

 アポ無しの訪問……それって…………。


 そこまで疑問に思ったところでこれまでの過去を思い出し、心当たりに行き着いた。

 そんなのここ一週間で何度もあったはずだ!なんてことを忘れてるんだ俺は!!


「ハク!待って!!」


 俺は慌てて立ち上がり、彼女を呼び止める。

 しかし時既に遅し。俺が声を上げる頃にはハクは扉を開け放ち、向こうにいる怜衣さんと溜奈さんを目に捉えていた――――。

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