第32話 最後のひとり……母さんが現れて、鬼たちと最後の死闘を演じてくれます

 俺のためらいを責めるかのように、鬼たちの結界が突然、嵐の前の暗がりに染まった。

……これは、何だろう。

 外の世界でも感じたことのない、じんわりと熱い、そして生臭い風が吹きつけてくる。

 何かが、いる。

 ……この向こうに、いる。

 何か禍々しい、言い表しようもないほど恐ろしいものが近づいている、そんな気がした。

 ……何だ? こいつ。いったい、何だ?

 肌をびりびりと震わせる空気の振動が、次第に音へと、そして何者かの声へと変わっていく。

 ……声じゃない、これは。他の、何かだ。

 そこで真っ先に反応したのは、鬼でも人間でもない。

 退魔師たちは疲れ切っている。

 咲耶は、狼の足の下で歯を食いしばっている。

 鵺笛と鬼たちは睨み合い、女たちは震えている。

 その、何かに気付いたのは。

 ……今にも、その牙で退魔師たちの喉を食い破り、鉄の翼で舞い降りて、銅の爪で目を抉ろうとしていた狼と善知鳥たちだった。

 はたと動きを止めたかとおもうと、そわそわと歩き回り、高く低く、デタラメに飛び回る。

 鬼たちが作り出した世界は、そんな混乱の只中にあった。

 獣たちを怯えさせたもの。

 狂気へ追いやったもの。

 それは、声というよりも、咆哮に近かった。


 大口真神と呼ばれる狼の顎から辛うじて逃れた咲耶は、よろよろと起き上がってつぶやいた。

「あれは……毒龍どくりゅう

 辺りを照らすものとしては紅葉狩の放つ赤い光しかない、そんな闇の中に、それは姿を現し始めていた。

 じんわりと姿を現しながら、鬼や人の頭上をぬらぬらと動き回っている。

 狼と善知鳥は、現れたときと同じように、どこかへ溶けて消えていった。

 だが、そんなわけにはいかない者たちがいる。

 残された退魔師も鬼たちも、ただでは済まなかった。

 そろってむせかえりながら、あっちへ、そしてこっちへと、のたうちまわる。

 そこにはも、鬼も人もない。

 俺はというと、まだましなほうだった。

 この状態では、何者でもないということか。

 金縛りのせいか、それほど息をしなくてすんでいたが、身体の奥から痺れが広がっていった。

 咲耶は……そして羅羽はどうしたろうか。

 羅羽は、力なく倒れ伏している。

 それを見た咲耶は、咳き込みながら俺に囁いた。

「吸いこむな……これは瘴気だ」

 固く口をつぐむと、鋭く息を吐きながら杖を振るった。

は・や!」

 退魔師たちも、同じように叫んで杖を薙ぎ払う。

 鈴が一斉に鳴ると、耳が痛くなるような甲高い音が響き渡った。


 たちまち一陣の風が巻き起こり、悪臭を放つ瘴気を吹き飛ばした。

 清々しいとまではいえないが、どうにか吸い込める息が頭の中の靄を晴らす。

 だが、そうなると鬼たちも助かるはずなのだが、そうはいかなかった。

 鵺笛が呻く。

「おのれ……毒龍」

 振り回される巨大な尾が、退魔師や鬼の頭上をかすめる。

 耳をつんざくほどの凄まじい音が、辺りを揺るがす。

 鬼たちは弾き飛ばされないように伏せ、退魔師たちはかざした刀で受け流して、横に転がった。

 鵺笛は低い声を立てながら、最後まで踏みとどる。

「羅羽……」

 悔しいが、俺はいいとこなしだ、

 だが、その鵺笛も、毒龍の尾の前にはひとたまりもない。

 凄まじい勢いの一撃に、軽々と吹き飛ばされる。

 ただでは済みそうもない勢いだった。

 だが、その身体を抱き留めた者がある。

 ひとりの退魔師が、そこにいた。

「これで、貸し借りなしだな」

 鬼たちを束ねる若き鬼も、形無しだ。

 背の高い鵺笛も尻餅をついてみれば、片膝を突いた咲耶の豊かな胸を枕にするしかない。


 だが、鵺笛は、礼も皮肉も言わない。

 傷ついた顔をさらに歪めて、口元を固く引き結ぶ。

 その目は辺りを包む闇の、ある一点だけを見つめていた。

「おまえは……」

 何者かに、呼びかける。

 振り乱した黒髪を散らした白衣をまとった女が、ふらふらと歩いてくるのだった。

 見覚えのある、影。

 それが誰かは、目を凝らさなくても分かった。

「母さん……」

 越井凪……鬼に捧げられた、俺の母親の姿がそこにあった。

 衣はあちこち裂けていた。

 闇の中にもつややかな肌が覗いている。

 血の鮮やかな赤が、衣の上にも肌にも滲んでいた。


 鵺笛が、立ち上がりながら呻いた。

 目が、怒りに燃えている。

「凪……貴様、なぜ毒龍を解き放った!」

 火を吐かんばかりに、荒い息をつく。

 母さんは、動じない。

 微かな笑みと共に、平然と答えた。

「私は、鬼と人間の世界との間の扉を預かった者。その扉を生み出す力の源に触れられるのは、私しかいません」

 喚き散らす鵺笛は、怒り狂うというよりも、明らかに狼狽していた。

「その身体、その傷、触れただけではあるまい! 鬼たちが総がかりでも抑えきれんものを、なぜ!」

 そんな思いをしてまで、母さんはここへやってきたのだった。

 だが、どうして?

 母さんは、静かに、しかし、冷たく言い放った。

「こうするしかなかったの。あなたと、あなたにそそのかされた鬼たちを止めるには、飢えを満たすまで暴れ続ける毒龍を差し向けるしか」

 文字通りの毒をもって、毒を制したということか。

 だが、母さんはまだ、何か考えているらしい。

 その目は、何かの決意を秘めているようだった。

 鵺笛は、短く、しかし鋭く言った。

「あれを勝手に解放した以上、命はない」

 相変わらずの脅し文句だったが、声は震えている。

 本当に、母さんは鬼の世界で殺されてしまうかもしれない。

 だが、反抗する子どもをたしなめるかのように、母さんは穏やかな、しかし厳しい声で言った。

「鬼の秩序を守ると言いながら、あなたたちがやったことは何? 私の自由を奪って力ずくで閉じ込めたうえに、あなた方が私に預けると決めた扉を勝手に開けるなんて……鬼の世界に帰れば、命がないわよ」

 聞いている息子の俺でも、鳥肌が立ちそうな気迫だった。

 だが、鵺笛も負けてはいない。

 大真面目な顔をして、落ち着いた口調で答える。

「痛み分けということか?」

 それは、さっき消えた獣たちの唸り声にも似ていた。

 引き下がるのが、よほど屈辱的だったらしい。

 母さんは頷いた。

「取引をしましょう。お互い、なかったことにすれば、命のやりとりをすることはないでしょうから」

 

 それでも、鵺笛は強気だった。

 譲ろうとする態度は、全くない。

 母さんの出した調停案を、嘲笑と共に一蹴した。

「命に代えても、扉は渡さない」

 信念というよりは、意地と執念が鵺笛を動かしているのだろう。

 そのひと言に、鬼たちは萎えた力を再び揺すり起こしたらしかった。

 ひとり、またひとりと立ち上がる。

 足もとに転がる刃物を手に、再び母さんへと遅いかかる。

 だが、母さんは怯むことなく、鬼たちを一喝した。

「食い殺されたくなかったら、お戻りなさい!」

 辺りの空気が、震撼する。

 まるで、その言葉に操られるかのように、毒龍は鬼たちの目の前へ這いこむように飛んできた。

 金色の瞳が、紅葉狩の光の中で妖しげに光る。

 大きな顎が、鬼たちの群れをひと呑みにしかねないほどに開かれた。

 その口の中は、紅葉狩の光よりもなお赤い。

 血の色をだった。 

 鬼はその場に武器を放り出すと、われ勝ちにと駆け出した。

 その姿も、何処かへ消えてしまう。

 だが、全てではない。

 残されたのは、鵺笛だけだった。

 手足に使える者は、もう、誰もいない。

 母さんは、幼子を教え諭すかのように尋ねた。

「さあ、ここにひとりで残る? それとも……」

 神速の短剣が、母さんの喉元へと飛んだ。

 それを紙一重で交わしたところで、鵺笛の貫手が心臓を狙う。 

「今死ぬも、後で命を絶たれるも同じことよ!」

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