第31話 女性たちの危機に、鬼たちのリーダーは……。

 先に斬りかかったのは咲耶だった。

「刃を交えるのは初めてじゃなかったかな?」

 高々と跳躍したかと思うと、鵺笛の脳天に刀を振り下ろす。

 だが、鵺笛は足元に油でも引いてあるかのように、音もなく、滑らかに退いた。

 大きな空振りに終わった刀を斜め下段に構えて、咲耶はふわりと舞い降りる。

 鮮やかなものだったが、その瞬間、鵺笛が動いたのは俺の目にも分かった。

 咲耶に危険を告げようにも、口が動かない。

 その足が着地する直前を狙って、鵺笛はさっきの咲耶よりも、なお低い姿勢で滑り込んだ。

 横薙ぎに払った手刀が、咲耶の両足を斬り飛ばすかと思われたときだ。

「なるほど、この瞬間を狙うわけだね」

 神主装束の白い服と白い袴が、空中でくるりと一回転する。

 目の前にさらされた鵺笛の背中に向かって、咲耶は逆手に持った刀の切っ先を突き立てにかかる。

 だが、鵺笛は更に、その上を行く手練れだった。

 手刀にしていた掌を突くと、反転して短剣を薙ぎ払ったのだ。

 咲耶は、落ち着き払って囁いた。

「いい手だけど、惜しかったね」

 足を垂直に伸ばしたかと思うと、全身で半月を描いて着地する。

 その背中に突き立てられようとした短剣は、咲耶が振り向きざまに突きつけた杖と牽制しあった。

 咲耶の喉元に、鉤状に曲げられた指が飛ぶ。

「ボクの勝ちだね」

 俺もここで、つぶやく咲耶の勝利を確信した。

 単純極まりない、じゃんけんだ。

 しかも、手はそれぞれ二つしかない。

 刃物と、そうでないものだ。

 いかに鵺笛の手が凶器だとはいえ、真っ向から刀を振り下ろされたら、ひとたまりもない。

 だが、その読みは甘かった。

 手首が、くいと動いただけで短剣は反対側の手へと移動する。

 咲耶が呻いて、斬りつける。

「こんな手品で!」

 降り下ろした刀は、三つ又の短剣に絡め取られた。

 手刀が、杖を叩き折る。

 それでも、咲耶は諦めない。

 髪の毛の中から抜き放った髪留めで、鵺笛の目を突きにかかる。

 そこで初めて、鵺は咆哮した。

「往生際が悪いわ、人間!」

 咲耶の手首を掴んで、軽々と空気投げを食らわせる。

 受け身を取りはしたが、立ち上がることはできなかった。

 巨大な獣が唸り声と共に、のしかかってきたからだ。

 鵺笛が、やれやれといった調子で息をついた。

「では、行け。獣たち……」


 獣たちに襲われたのは、咲耶だけではなかった。

 辛くも鬼たちに勝利を収めようとしていた退魔師たちは、大混乱に陥っていた。

 咲耶が呻く。

大口真神おおくちのまがみ……」

 つまり狼の化物が、群れを成して食らいついてきたのだ。

 どれだけ刀で斬りつけても、すぐに回復してしまう。

 何人も一斉に掛かって、足を残らず斬り飛ばしたとしても、顎だけで食らいついてくる。

 信じられないほどの敏捷さでかわしても、狼は次から次へと現れる。

 たちまちのうちに、退魔師たちは背中合わせに追い詰められる。

 刀を構えて、外向きの円陣をいくつも張る羽目になった。

 だが、事はそれだけでは済まなかった。

 退魔師たちの遥か頭上から、甲高い声を上げて急降下してくるものがあったのだ。


 咲耶は、不安げにつぶやく。

善知鳥うとう……」

 それが何なのかは、咲耶が田舎からこっちへやってきてから聞いたことがある。

 能のうたいのひとつだ。


 ある旅の僧侶が、「日本の屋根」とも、また地獄にも見立てられる立山連峰にさしかかったとき、ひとりの漁師の亡霊が現れる。

 形見の品を預かって、妻と子に届けた僧侶が供養すると、現れた漁師の亡霊が地獄の辛さを物語るのだ。

 その様が、目の前に展開されていた。


 鉄の色をした翼を持つ鳥が、赤銅色の爪をぎらつかせて、退魔師の頭上から急降下する。

 人の絶叫にも似た鳴き声は、金縛りにかかった身体の奥にも、悪寒と鈍い痛みを走らせる。


 ……「うとう」「やすたか」「ウトウ」「ヤスタカ」と。


 ましてや、 狼たちに押さえつけられているとはいえ、わずかながらも自由の利く身体は、その苦痛に捩じれ、もがき、のたうち回る。

 さらにその爪は、退魔師たちの身体を情け容赦なく抉った。

 色とりどりの神主装束は引き裂かれ、真っ赤な血の色で一様に染まる。

 形勢は、一気に逆転した。

 今まで、息も絶え絶えになりながら戦っていた鬼たちは、俄然、勢いづいた。

 こういうとき、抑えつけられていた者の怒りや憎しみというのは、抑えつけていた者のなかで最も弱い者へと向けられる。

 しかも、この場合は、鬼たちの中に本能として潜む、そして当然の宿命として課されたものが指し示す相手が、すぐ目の前にいた。

 うずくまる羅羽を牽制する、女たちだ。

 むせかえるような色香を放つ、全裸の……。


 鬼たちが雄叫びを挙げて、退魔師の女たちに殺到した。

 女たちは羅羽を背にして囲むと、手に手に武器を持って構える。

 もともとは長い黒髪の中に隠していた簪や針、鎖分銅が、鬼たちへと放たれた。

 だが、逆上し、興奮に身を任せた鬼たちはもう、そんなものは通用しない。

 女たちの武器は、唸りを上げる刃の前に、ひとつ残らず弾き飛ばされた。

 勝ち誇った鬼たちは、自分たちの武器をも投げ出す。

 田舎の神社で見た狒狒神たちのように猛り狂って、女たちへと飛びかかった。

 たちまちのうちに、白く瑞々しい身体は、禍々しく隆起した鬼たちの肉体の下に組み伏せられる。

 最初のうちは歯を食いしばって抵抗していた女たちだったが、とうとう、ひとりが耐え切れずに微かな声を立てた。

「いや……」

 それがきっかけとなって、はりつめた意図が切れたかのように、次から次へと悲鳴が上がっていく。

「やめて!」

「離して!」

 女たちの包囲から解放された羅羽はというと、その場にうずくまったまま、仲間のすることを呆然と見ていた。

 

 その鬼たちを制止したのは、以外にも、鵺笛だった。

「やめろ! 女たちに手を出すな!」

 だが、鬼たちは聞く耳を持たない。

 鵺笛はなおも、鬼たちの大義を説き続ける。

「確かに、人間の女をさらって子を成すのは、鬼が鬼であるためには当たり前のことだ。だが、これは我らの世界を守るための戦いだ!」

 鬼たちの腕力に、女たちはぐったりとして、なすがままにされている。

 鵺笛の口から、唸り声と共に牙が覗いた。

「いかに同胞とはいえ、鬼の誇りを忘れた者に容赦はせん」

 そう言い捨てると、いちばん手前の鬼の首元を掴み上げて、女の身体から引き剥がす。

 双方の顔に浮かんだ恐怖の色など知らないという顔で、鵺笛はきっぱりと告げる。

「掟に従ってもらうぞ」

 本当に、仲間でさえも殺してしまいかねない勢いだった。

 その手には、さっき咲耶に向けて振るった短剣が輝いている。

 鵺笛は、退魔師の女にも告げた。

「おぬしたちは、鬼の世界にここまで足を踏み込んだ。その報いは、受けてもらう」

 狼たちの咆哮と、善知鳥たちの叫喚が響き渡った。


 抵抗する退魔師たちは、ひとり、またひとりと力尽きていく。

 咲耶もまた、大きな狼の足の下に押さえ込まれている。

 鬼たちの狼藉は止んだが、鵺笛の前に、人間は男も女もない。

 目の前でたくさんの人が死へと向かっているというのに、俺はどうすることもできない。

 それが、たまらなく悔しく、忌々しかった。

 身動きもできないまま、そんなことを考えていると、俺の頭の中に浮かび上がった顔があった。


 ……母さんだ。


 だが、絶体絶命の俺を見るその目は、厳しくはあっても優しくはなかった。

 むしろ、叱りつけられているような気さえした。


 ……もうだめだなんて、言い訳しないで。あなたが正しいと思うことをしなさい。


 それは分かっている。

 何かしようと思っても、俺にはできない事情があるのだ。

 そう言いたい俺の気持ちを見透かしたように、母さんは言った。


 ……できない理由よりも、できると信じて行動を起こす根拠よ、大事なのは。

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