第11話 修羅場のプールサイド小景
それから、1週間ばかり経っただろうか。
俺は居間の畳の上で、呆然と天井を眺めていた。
「なかった……心安らかな日は……1日たりとも、朝から晩まで」
目が覚めれば、いつのまにかベッドの中で寝息を立てている。
夜は夜で、身体にタオル1枚巻いただけの姿で俺の背中を流しに来る。
いつ、身体が邪な反応の報いで金縛りにならないとも限らない。
そんな俺の気も知らず、羅羽は退屈を持て余していたらしい。
「お兄ちゃん、今夜、花火行きたい」
そういえば、旧暦の七夕の花火大会が、近所の河原で開かれるのだった。
もっとも、花火が見られるのは川ひとつ手前の神社で、そこには屋台も出る。
「ダメ」
いきなりの申し出を、俺はひと言で却下した。
咲耶と出くわしたりしたら、またこの間の晩のような修羅場になりかねない。
「じゃあ、プール行きたい」
羅羽は、もう着替えの入ったカバンを肩から下げている。
「ダメ」
俺はその場で却下した。
「何で? 暑いし何にもすることないし」
居間の座敷にひとり胡坐をかいて、俺は羅羽に背を向けたまま答える。
「宿題は終わったのか?」
いくら実は鬼だといっても、この世界には先祖が作った「影の戸籍」がある。
あの義理の母は、娘にきっちり義務教育は受けさせていたのだった。
羅羽は冷ややかな声で、質問を質問で返してきた。
「じゃあ、お兄ちゃんは?」
羅羽に
だから、俺は正直に答える。
「これからやる。だからプールには行かない」
実を言うと、理由は他にあった。
俺の手には、咲耶から届いたばかりの暑中見舞いがある。
そのハガキには、右上がりの流れるような筆跡で、こう記されていた。
《水難にご用心》
このひと言だけだが、羅羽はハガキ一枚で頭に血を上らせかねなかった。
早くプールを諦めてほしいと思っていると、意外にあっさりと引き下がる。
「分かった」
そう言うなり居間から出て行ったが、安心するのはまだ早かった。
正面のガラス窓の向こうで、物置から出してきたらしいビニールの塊が庭に放り出される。
「おい羅羽、何を……」
ハガキを後ろ手に放り出して、ガラス窓に近寄った。
羅羽はビニールの塊りから伸びた長いチューブを口にくわえて、ひと息吹き込む。
それだけで、そこには幼い頃に使っていた懐かしいビニールプールが現れた。
庭の蛇口から流しこんだ水が、その中に満ちたところで羅羽は服の裾に手をかける。
俺を横目で見て、大声で告げた。
「ここで行水するから」
俺は即座に態度を変えた。
「分かった! 行く!」
そのときだった。
畳の上のハガキは白い鳥になって、どこかへ飛んでいった。
市営プールに羅羽と共にやってきた俺は、一抹の不安を拭い去れないでいた。
あの式神が飛んでいったということは、必ずどこかで咲耶が現れるということだ。
それは、まずい。
公の場での私闘は免れないだろう。
だが、当の羅羽は、プールに飛び込んでは水面に浮かび上がり、陽気にはしゃいでいる。
最悪の事態を想定して膝を抱える俺など、まったく気にしてはいなかった。
プールサイドに上がってくるなり、顔を覗き込む。
「一緒に泳ご?」
俺は目をそらす。
羅羽は不機嫌そうな声を上げる。
「お兄ちゃん?」
別に、無視しているわけではない。
羅羽の水着のせいだ。
ビキニはないだろう。
胸もないくせに。
「どうしたの? やっぱり、気になる? 宿題」
ある意味、そっちはどうでもよくなった。
気になるのは、ビキニの胸の隙間だ。
羅羽がやたら動くので、空きやすい。
目をそらさないと、危険だった。
「怒ってるの?」
羅羽は、そっちへ回り込んでくる。
「いや……」
俺は、金縛りにかかるまでもなく、動けなくなった。
仕方なく、俺は羅羽をたしなめる。
「他のデザインなかったのか」
くすくす笑う声が、耳元で聞こえた。
「あ、そういう目で見てる?」
「兄としてだな」
俺にも、絶対に守るべき一線というものがある。
だが、羅羽は改まった口調で答えてみせた。
「普通のお兄ちゃんは気にもしません」
そこで、俺の腕に絡みついてきたのものがある。
慌てて、羅羽のしなやかな腕をすりぬけた。
「だから目立つって」
小走りに立ち去ると、羅羽はプールサイドにぺたりと横たわった。
わざとらしく手を伸ばしてくる。
「待ってよ」
「すぐ戻るから」
本当にそのつもりだったが、今度は羅羽がそっぽを向いた。
「戻ってこなくていい」
完全に、臍を曲げていた。
これはこれで、放置できない。
この間のように、本当に家から閉め出される恐れがある。
「ほっとけるか」
元いたところに戻ろうとすると、今度は羅羽が立ち上がった。
「ほっといて」
俺の顔も見ないで、すたすたと歩み去っていく。
当然、周りの男どもが放っておくわけがなかった。
羅羽のビキニと、すらりと伸びた手足に視線が集まる。
男どもの目つき顔つきをみれば、一目瞭然だった。
「だから言わんこっちゃない」
俺は羅羽の後を追いかけた。
「おい!」
名前を呼ぶわけにはいかなかった。
周りの男どもに下手に知られたら、どんな使い方をされるか、分かったものではない。
「こっち戻れよ!」
プールのほとんど反対側にいる羅羽に、俺は大声で呼びかけた。
相手が鬼だと知らずに下手にちょっかいをかければ、男どもだってタダでは済むまい。
羅羽は立ち止まって俺を見つめはしたが、わざとそっぽを向いてみせる。
さすがに、これは人目が気になった。
「俺がふられたみたいじゃないか、はた目から見れば……」
実際、羅羽を狙っていた男たちは猛然と動き出した。
あっという間に、ビキニ姿のスレンダー少女を取り囲む。
だが、羅羽はあっさりと男たちの群れを突破する。
顔も向けずに背中だけを向けて、「じゃあね」と言わんばかりに手を振りながら置いていく。
冷たくあしらわれた男たちは、かえって己を失ったようだった。
羅羽の後をふらふらとついていく有様には、俺もツッコまないではいられなかった。
「完全に腑抜けだな……」
さらには、水着姿の女性たちが、傍らの男を唖然と見送る。
これには、俺もうろたえた。
「彼女連れだろ、お前ら……」
その結果は、目に見えていたからだ。
あっという間に、プールサイドではいくつもの修羅場が展開する。
男たちも、小突きあいを始めた。
それぞれが、羅羽に相手にされないのを別の男のせいだと思いはじめたようだった。
「やめろ、おい!」
プールをぐるっと回ってくる咲耶とすれ違う形で、俺は男たちに歩み寄る。
だが、たちまちのうちに袋叩きにされた俺は、情けなくも悲鳴を上げた。
「やめてくれ!」
「お兄ちゃん!」
羅羽が慌てて振り向く。
それはそれで危険だった。
鬼の力で俺を助けに入れば、男どもはタダではすむまい。
だが、それはきわどいところで回避された。
「克衛!」
プールの向こう側から呼んでいるのは、咲耶だった。
拳を止めた男たちが左右に分かれて、プールサイドをふらふらと歩いていく。
その理由は、遠目にも分かった。
「う……」
俺は呻いて、プールの中に転落する。
金縛りだった。
「お兄ちゃん!」
羅羽が叫んで、水の中に飛び込む。
明らかに場違いなスクール水着には、身体の線がくっきりと現れていた。
それはどんな極小のビキニよりも、男の心と身体の中に潜む、言葉にできない原始的な何かを駆り立ててやまなかった。
俺も例外ではなかったらしい。
だが、命だけは助かった。
「大丈夫?」
プールの底から水面へ俺を助け起こした少女がいた。
俺は朦朧とする意識の中で、その名を呼んだ。
「羅羽……」
だが、唇の余韻と胸の感触の柔らかさは、人違いだと告げていた。
「残念でした」
水滴のしたたる髪を撫で上げながら、咲耶は寂しそうに、しかし思いっきり笑ってみせる。
その意味するところは、察しがついた。
咲耶とのキスは、きっちりと四方のプールサイドから見られていたらしい。
誰が見ても、俺たちは人目をはばかることもない恋人同士だ。
それは決して迷惑ではないし、むしろ、羅羽の名前を呼んでしまったことには、胸の奥がずきんとした。
だが、冷やかしの声は上がらなかった
聞こえたのは男たちの絶望の声と、連れてきた女性との修羅場の悲鳴だった。
そして、俺にも修羅場はやってくる。
背中には、ぴったりと押し付けられたビキニラインの感触があった。
水の中だけに、余計にはっきりと感じられる。
「お兄ちゃん……?」
羅羽が、後ろから回した手と足で、俺の身体を拘束する。
そのまま水の中に倒れ込んだ。
だが、いつの間にか、俺はプールサイドに横たわっている。
退魔師の秘術で、俺を救い出した咲耶の姿はない。
水面に顔を出した羅羽が、顔を左右にぶるぶるやって叫んだ。
「あの女~!」
その咲耶の囁きだけが、どこからか聞こえた。
……今夜の花火……来ないと金縛りだよ。
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