第10話 義母が去った後は妹鬼と幼馴染とで風呂場が地獄のハーレムになりました

 篠夜さんは優しく微笑むと、穏やかに、しかし、はっきりと答えた。

「お母様のことは、よく存じ上げています。ですが、今は、無事だとしか申し上げられません」

 俺は、更に尋ねた。

「母さんは、どうして鬼の世界に行ったんですか?」

「お話したいことはたくさんありますが、十分な時がありません。ただ、そのお気持ちだけでも……」

 篠夜さんの姿が、少しずつ薄らいでいく。

 俺は固唾を呑んで、その言葉に耳を澄ました。

「あなたは狙われていますが、羅羽と静かに暮らしていれば安全です」

 すると、羅羽を家へ送り込んできたのは親父ではないことになる。

 母さんの意思を受けた、篠夜さんなのだ。

 その微かな声だけが、自分の願いを最後の最後に告げる。

「……娘を……お願いします」

 

     

 篠夜さんの姿が消えた後、俺はしばらく呆然としていた。

 その美しさに、うっとりしていただけではない。

 多くは聞けなかった、母さんのこと。

 その母さんが、今でも俺を心配していること。

 そして、俺の身の安全は、篠夜さんに託された羅羽にかかっていること。

「とにかく、落ち着こう」

 自分に言い聞かせて、咲耶が置いていった袋のラッピングを解く。

 その中には、ストラップ状にした、小さなお守りがあった。

 藁人形の犬。 

 布の人形。

 折り紙の鳥。

「あれ?」

 袋の底には、そこらで買ってきたっぽい、小さなチョコレートが入っていた。

 和紙の一筆箋が添えてある。

 流れるような筆遣いで、こう書いてあった。


 ……ケーキは、また今度。


 一緒に過ごせなかった、正月とバレンタインとクリスマスまとめて、という意味らしい。

「器用なんだか不器用なんだか」

 俺はチョコレートを食べると、一筆箋とお守りを入れた袋を、風呂場へ急いで持っていく。

 後ろ手に籠の中へ投げ込むと、羅羽に見つからないよう、脱いだ服をかぶせて隠した。


 だが、湯船に浸かっていると、階段を下りる音がした。

 上の階には、俺の部屋がある。

 母親に席を外せと言われた羅羽が、勝手に入り込んでいたのだろう。

 知らん顔していると引き戸が威勢良く開いて、ごそごそと服を脱ぐ気配がした。

「背中流してあげる、お兄ちゃん」

 咲耶の置き土産を見られるよりも、こっちのほうがまずい。

「何べん風呂入る気だ」

 そんなツッコミで引き下がる羅羽ではない。

「いっぺん見たんだし、私の……」

 有無を言わさず裸で風呂場に入ってきたが、目をそらすまでもなかった。

 

「……う!」 

 俺は、呻いて風呂の湯に沈んだ。

 咲耶にかけられた、あの金縛りの状態だった。

「お兄ちゃん!」

 羅羽が湯船に腕を突っ込んで、俺を引き上げる。

 そこで、あの鳴き声が聞こえた。


 ……くうおおおおおん!


 閃光と共に、風呂場へと飛び込んできたのはたぶん、あの狐だ。 

「邪魔しないで!」

 羅羽が追い払おうとしてじたばたすると、俺の鼻や口から湯が入ってくる。

 息が詰まりそうになったところで、ベつの声がした。


 ……お助け申そう!


 あの鎧武者の声だった。

「何勝手に入ってきてんのよ、変態!」

 羅羽の抗議に貸す耳など、鎧武者は文字どおり、最初から持っていない。

 俺の頭を鷲掴みにすると、むんずと湯船から引き上げる。

 助かった……。

 だが、羅羽の爪は、横から鎧の手首を切断する。

 俺は再び湯船へと落ちたが、羅羽の滑らかな身体に受け止められた。

「大丈夫? どこも痛くない?」

 痛くはないが、大丈夫でもない。

 たとえ妹になったとしても、見せてはいけない身体の反応が男にはある。

 そのとき、眼球さえも動かせないままの視界の隅に見えたものがあった。

 風呂の窓をすり抜けて飛んでいく、白千鳥だ。


 ……また、ボクを呼んだ?


 どこからか、咲耶の声が聞こえる。

 次の瞬間、何か大きくて柔らかいものが、俺の背中に当たった。

 羅羽の悲鳴が上がる。

「ああ! 私がやろうと思ってたことを!」

 頭の後ろから、俺の顔伝いに滑ってきたものが、唇を包み込む。

 俺の金縛りはようやく解けたが、身体は解放されなかった。

 何とか動かせるのは、眼球だけだった。

「……え?」

 口もようやく自由になったが、声を漏らすのがやっとだった。

 まず、見えたのは、今にも泣きだしそうな羅羽の顔だ。

「ひどい……お兄ちゃん」

 続いて横目に見たのは、至近距離にある咲耶の顔だった。

 けしからん発育をした身体は、見えなくても頭の中に浮かぶ。

 身体の反応を気にしながら、俺はまた硬直した。。

 再び咲耶が唇を重ねてきて、風呂場には羅羽の号泣がこだまする。


 台所の向かいにある、居間の畳の上で俺は寝かされていた。

 風呂の湯の熱さの他にいろいろあったせいで、すっかりのぼせてしまったのだ。

「大丈夫?」

 傍らに座って、団扇を手に俺の身体を覚ましているのは、咲耶だ。

 ちゃっかり、俺の浴衣を着ていたりする。

 部屋の隅にうずくまって拗ねているのは、羅羽だ。

「お兄ちゃんさえ許してくれたら、生かしておかないのに……この女」

 因みに、こっちは親父の浴衣を着ている。

 妙に懐かしくて、つい、冗談を飛ばしてしまう。

「つまり、咲耶の命は俺が握ってるわけだな」

 団扇を握る手が、俺の額をこつんとやった。

 いわゆる修羅場といえば修羅場のはずのなのに、どうも緊迫感がないのには理由がある。

 

 ……お力になれず、まことに面目ござらん。


 部屋の入り口で番をするかのように正座しているのは、あの鎧武者だ。

 羅羽に斬り落とされた手を元に戻そうとして、何やらカチャカチャやっている。

 天井の隅では、狐たちが縮こまって、俺のほうを見ていた。


 ……くおおおおん?


 咲耶が言った。

「心配しなくていいから、元に戻っていいよ」

 畳の上に置かれたラッピングには、藁の犬と布人形のストラップが転がり込む。

 羅羽が皮肉っぽくつぶやいた。

「余裕ですね、式神を帰すなんて」

 咲耶も、平然としたものだった。

「相手になるよ、その気なら」

 ぐっと怒りをこらえた羅羽は、冷ややかな声で言い放つ。

「どうぞ、いつでもお帰りくださいな。咲耶さんがなさったことは、その後たっぷりと……」

 さすがに、そこには俺もツッコんだ。

「やっぱりその気だったんか!」

 すると、咲耶の涼しい団扇が止まった。

「いやらしいこと考えると、こうだからね」

 それは、咲耶のキスまで解けない金縛りに見舞われるということだ。 


 しばしの沈黙のあと、羅羽が目を剥いた。

「……一服盛ったわね!」

「人聞きの悪いことを」

 そう言いながらも、咲耶は気まずそうな顔をしている。

 俺は、口の中の微かな苦みを思い出した。 

「……まさか、じゃがピー?」

 咲耶は、慌てて取り繕う。

「ごまかせなかったか、チョコレートじゃ」  

 羅羽が、鼻で笑った。

「恐ろしい女ね、可愛い顔して」

 人のことは言えないと思うが。

 咲耶は咲耶で、負けてはいなかった。 

「大丈夫、男の退魔師が煩悩を祓う修行に使う薬草、ちょっと入れただけだから」

 つまり、ちょっとでも女への邪な心を起こせば、全身の自由を失うわけだ。

 それを解けるのは決まった女だけとすると……?

 俺はちょっと、口を挟んでみた。

「むちゃくちゃ不公平じゃないか、その世界」

 咲耶は答えずに、立ち上がった。

「じゃあね……実は僕も、お風呂の途中だったんだ」

 そう言うなり、浴衣だけを残して姿を消した。

 代わりに、折り紙の鳥のストラップが戻ってくる。

 ぽとりと目の前に落ちたのを、ラッピングの袋に戻そうとしたときだった。

 その中から、一筆箋がひらりと落ちる。

 羅羽が気づいて、素早く拾い上げた。

「何? これ」

 さっと目を通すと、俺に投げてよこした。

「楽しみね、お兄ちゃん……今夜はここで寝て!」

 言い捨てるなり、居間から出て行く。

 これで、ようやく、ひとりになれた。

 ひと息つきはしたが、ふと、不安になったことがある。

「クリスマスの代わりのケーキ、いつ届くんだろ」

 いや、そもそも、俺の夏休みはどうなるんだろうか。

 鬼の妹と、ちょっとぶっ飛んだ幼馴染の退魔師に挟まれて。

 そこで、どこからか微かに聞こえる声があった。


 ……信じなさいな、うまく行くって。何もかも。


 それは、篠夜さんの声のようでもあるし、ただの空耳のようでもあった。

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