第98話 あ、それとも、石原くんの弁護でもいいよ?
「……え、えっと……」
しかし、稲穂さんに言えとせがまれても、なかなか面と向かって言うのには勇気がいる。
「石原くん」
言い淀んだ僕の、背中を押すように続けた稲穂さん。
その一言が、決定打だった。喉元に引っかかっていた言葉は、するりと口元を通り過ぎ、
「……稲穂さんが、もし今みたいな状況じゃなかったら、違ったかもしれないです」
数センチ先に座っている稲穂さんに、僕はダメを押した。その答えを聞いた稲穂さんは、へにゃりと目を細めて顔を綻ばせる。糸になった瞳から、切れ端が雫となってひとつ流れるのに、時間はそれほどかからなかった。
「……ありがとうね、言ってくれて」
稲穂さんはすると、自分のドリンクを一気に飲み干しては、テーブル脇にあった伝票を掴み取ってその場を後にしようとする。
「あっ、呼び出したの僕ですし、僕がっ」
当然、僕はそう言って稲穂さんを止めようとした。けど、
「……今まで、石原くんに払わせっぱなしだったからさ。そのツケが来たんだよ、わたしに。だから最後くらい、わたしが払うよ」
先輩は止まることもせず、そのままレジへと一直線に向かっていく。
「ちょ、い、稲穂さんっ。さっ、最後って」
「……石原くんのことになると、欲張りさんになっちゃうから、わたし。会ったら、決意が揺らいじゃうかもしれないし。そうだなあ、次会うときは、結婚式とかがいいかなあ。あ、それとも、石原くんの弁護でもいいよ?」
レジまであと少し、というところで立ち止まった稲穂さんは、振り返ることなくおどけてみせる。
空元気なのは、見え見えだ。
「それじゃあね、石原くん。バイバイ。──あっ、会計ふたりぶんまとめてでお願いしまーす」
稲穂さんは結局、一切後ろを気にすることなく、会計も済ませてお店を後にしていった。
「……一体、何の弁護をしてくれるおつもりなんですか?」
未成年とやっちゃった(やってない)ことか、刃傷沙汰か、それとも離婚か。そんなオチは想像もしたくないから、つまるところ、
「……上手くやってねっていうメッセージなんだろうけど……」
それにしたって……ちょっとメンタルに来るよ、これ。
しばらくの間、僕はコップに残っていた苦みが増した緑茶をすすることしかできなかった。
〇
これでいい、これでいい、これでいい、これでいいんだ。
「……こうするしか、なかったんだ。……なのに」
ただでさえ軽い財布の中身がもっと軽くなった会計後。お店を出て駅の方角に向かおうとすると、
「……なんで、ここに松江さんがいるのかなあ」
恐らく今一番会いたくない人が、わたしの行く先にいた。
「悠乃くんが、何か深刻そうな顔をして出かけて行ったので。胡麻さんに会いに行っていたんですね」
「……それで、わたしを笑いに来たの?」
だとしたら、いくらなんでも怒っちゃうかもしれないなあ、わたし。
「……確かに胡麻さんのことは一部分のせいでとても嫌いですけど、そんなひどいことはしないですよ」
「じゃあ、なにしに来たの?」
「……ちゃんと、お礼を言ってなかったなって思って」
「いつのかなあ」
「プールの日。私にかき氷をご馳走してくれたことです」
声の調子を変えることなく、松江さんは淡々と理由をわたしに告げた。煽るつもりもないんだろう。純粋に、ただ、わたしにお礼を言いに来たんだ、松江さんは。
「……なんで、なんで悪者になってくれないのかなあ……そんなこと言われたら、松江さんのこと、恨むに恨めなくなっちゃうよ……」
「……私は胡麻さんのこと、ちょっとは恨んでますからね。胡麻さんのせいで婚姻届破られましたし。なので、ずーっと悠乃くんとの惚気話を胡麻さんにしてあげます」
「そんなことされたら、ブロックする自信があるけど」
「そのときはお家にお手紙を送ります。胡麻さんが悠乃くんのこと、受け入れられるようになるまでずーっと自慢します。だって」
「……だって?」
松江さんは、窓ガラスの先でテーブルの上でひとり首を垂れている石原くんを指さして、
「……悠乃くんがあんなに落ち込むなんて、なかなかないです。せめて、胡麻さんとも普通の先輩後輩でいたかったんじゃないんですか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます