第97話 そうだったんだねー、初めて聞いたよーわたし。
途端、テーブルに身を乗り出す稲穂さん。
「……本当です」
僕がか細い声で稲穂さんの質問に答えると、彼女はしゅるしゅると紐が転がるように乗り出した体を座席に戻す。
「……そっ、そうなんだ。そうだったんだねー、初めて聞いたよーわたし。あははー」
空元気のように乾いた笑いを浮かべ、空になったグラスをストローで吸い続ける稲穂さん。明らかに動揺しているのが見てとれる。
グラスを一瞥して、ようやく空になったことに気づいた稲穂さんは我に返ったのか、
「……やっぱり、松江さんのほうが好きだったんだね」
コトン、と軽く音を立ててテーブルにグラスを置いた。
「いや、なんとなくわかってはいたんだよ? プールの日、怪我したわたしより、松江さんのほうを優先したこととか」
「そっ、それは」
「あと、何回据え膳になっても石原くん食べてくれなかったこととか」
やっぱり僕をヘタレと言いたいんですね……。いや、そこは本当に置いておいて。
「わかるよ? 明らかに松江さんの怖がりかたが尋常じゃなかったし、優先すべきだってことは、一般論としてわかってる。そのくらいの分別はわたしだってつく。でもね、頭ではわかっていても、気持ちはそうは言ってくれなくてね」
そこまで話すと、「ごめんねちょっとおかわり取ってくる」と呟いた稲穂さんは、一瞬だけ席を外した。
「……プールの日からね。夜家で勉強しているときとかにね、何もないのに急に涙が出て来ちゃうんだよ」
戻ると、一緒に取ってきた紙ナプキンで少しだけ目元を抑える稲穂さん。
「すっ、すみま──」
「──謝らなくていいよ。石原くんがわたしを泣かせようってつもりがないのもわかってるから。……謝られたら、余計泣けてきちゃうから」
つい、喉の奥から出かかった言葉は、遮られた。
「……そもそもね? 石原くんが、わたしを良くしてくれるのも、わたしが貧乏だったからなんじゃないかなあって」
「そんなこと、ないですって……」
「まあ、石原くんならわたしが貧乏じゃなくても、ただ、名前がちょっとだけ珍しいっていう共通点だけで仲良くしてくれたかもしれない。……でも、毎月飲みに付き合ってくれることも、バイト先が潰れたときに助けてくれることもなかったんじゃないかなーって」
「……そ、そうかもしれないですけど」
「わたしがお金に困らない普通の大学生だったら、反対にわたしが石原くんにご飯奢ってあげたりしてね? それで、今みたいな気持ちになれたのかなあって」
たらればの話なんて言ってもわからない。わからないけど、稲穂さんが言うことも理解はできる。
「……そもそもね? お金に困ってなかったら、司法試験受けようだなんて夢、持ったのかなあって。普通に大学生して、他のみんなは当たり前のように行っている合コンとかも参加して、もしかしたら石原くんのことなんとも思わない生活をしていたのかもしれないし、石原くんと同じ大学に通うことすらしなかったかもしれない」
クシャクシャと稲穂さんは手慰みに、使った紙ナプキンとストローの入っていた包装紙を小さく丸め、続ける。
「そうなっちゃうとね? 石原くんはわたしが貧乏だから優しくしてくれて、そんな優しさにわたしは甘えてねってことになって。……純粋に石原くんのことを慕っている松江さんに申し訳なくなってきちゃって」
「い、稲穂さんがそんなこと考える必要は全然っ」
「だからなんだよね? 石原くんが据え膳を食べなかったのは」
「えっ……? い、稲穂さん?」
「……そうなんだよね? そう、って言ってくれると、わたしは凄い嬉しいんだよなあ」
トドメを、刺して欲しがっているんだ、稲穂さんは。
「そうしてくれるとね? じゃあ貧乏じゃなくなればいいんだってなって、今後の勉強のモチベーションにも繋がる気がするんだよ。最近、勉強もあまり手がついていないからさ」
普通だったら、絶対に言えないようなことを、僕に言わせたがっているんだ。
「ね? そうだよね? 石原くん」
稲穂さんに限らず、人の家庭環境をとやかく言うのはあまり好ましいことではない。言うのだったら、それは本気で向き合うつもりがあるときしかありえない。
でも、僕にそのつもりはない。
稲穂さんではなく、伊吹を選んだ時点で、そうなることが決まったんだ。
今更、稲穂さんはいい友達でだなんて言い訳も通用しないだろうし。
そうであったとしても、稲穂さんは、僕に言わせようとしている。
結果、自分がそれで気持ちの踏ん切りがつくから、という理由で。
「……お願い、石原くん。わたしがお金に困ってたからって言ってよ。そうじゃないとね? 図々しくさ、諦めがつかなくなっちゃうから」
彼女の声は、もはや、半分以上潤んでいたかもしれない。
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