第95話 保管用と持ち歩き用で二枚用意することにしたんです

「……僕はどこにも行かないから」

「……ほんとにですか?」

「うん、ほんと」

「……ほんとにほんとですか?」

「……ほ、ほんとだよ。もし嘘だったら、今度はもう婚姻届に名前書くから」


 僕がそう言うと、すっと伊吹はベッドから出たと思うと、荷物から何か漁る。もちろん、その間も一糸纏わない姿なので、正直見ていることができない。

 ものの数秒でベッドに戻ってきては、すぐに僕の体にぴとり、とくっついては、


「書いてくれるんですか? 悠乃くん」

 伊吹の欄だけ埋まっている婚姻届が、僕の目の前に現れた。


「……え? もしかして、婚姻届持ち歩いているの?」

「まあ、この間おっぱいさんに破られたときに、保管用と持ち歩き用で二枚用意することにしたんです」


 ……そんな、オタクの保管用・観賞用・布教用で同じものを三つ買うのノリで婚姻届用意する人初めて見たよ……。

「ぁ、え、えっと……僕が約束を破ったら、ね?」

 なんか、今すぐ書くみたいな話になっているけども。


「……わかりました。そういうことでしたら、悠乃くんの言う通りにします」

 が、僕の説得は一定の効果があったみたいで、今にも僕をどうにかする、くらいの勢いだった伊吹は、ひとまずは僕の言うようにしてくれるみたいだ。


「……そ、そういうわけなんで、と、とりあえず服、さっき脱いだバスローブでもいいから何か着てくれると、僕としては嬉しいかなあって……。正直、当たってるし感じちゃいけない感触もしているしで、色々と問題しかなくて……」


「……私としては、涼しいのでこれでも全然いいんですけど」

「確かに涼しいかもしれないけどね? 体冷やしちゃうからね?」

「そこまで言うなら……仕方ないですね」

 そうして、伊吹はベッドの隅に置いていたバスローブを手に取って、それをまた羽織ろうとしたのだけど、


「ひゃっ、ひゃあ!」

 タイミング悪く、鳴りを潜めていた雷が一発落ちてしまい、再度伊吹の幼児化モードが発動してしまう。


「ぅぅぅぅ、かみなりこわいよお……」

 となると、何も着ないまま僕にひっついてきたものだから、もはや処置なしといったところだろうか。そのまま一日の疲れもあってか、数十分も経つ頃には僕に胸元で健やかに寝息なんて立ててしまい、


「……何の罰だよ、これ」

 どうすることもできないまま、僕はホテルでの一夜を明かした。誓って、僕は何もしていない。それだけは信じて欲しい。


 翌日。昨日の大雨とは一体なんだったんだというくらい真っ青な空が窓から覗き込んでいて、ちょっとだけやるせない気持ちになったのは置いておいて。

 朝起きて(そもそもまともに眠れていないから起きてという単語を使うもの怪しいところはあるけど)、まず真っ先に洗濯と乾燥まで済ませて僕らが今日着る服を確保。


 二度目のルームサービスで朝ご飯を食べて、一応スマホで電車が動いていることも確認したのち、それほど安くないお金を自動精算機に突っ込んで、財布も心もすり減らすことになったホテルを僕らは後にした。


 ホテルから駅、そして家へと向かう道の途中、隣を歩く伊吹は、少しだけ上機嫌そうに頬を緩めながら、


「……い、伊吹? ち、近くない?」

「だって、結婚はしないにせよ、お付き合いはしてもいいってことですよね? それだったら、これくらいしてもいいんじゃないんですか?」

「ま、まあ……いや、えーっと……うん……」


 僕の腕に自分の腕を絡め、それはまあ端から見れば微笑ましい光景を作り出していた。

 ……僕の胃は、キリキリと軋む音がしていた気がするけど。


 大丈夫かなあ……ああは言ったけど、そもそも大学生が高校生と一緒に歩くだけで色々危ないところがあるから……。


「あ、悠乃くん、今日の晩ご飯は何がいいですか?」

 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、伊吹はいつものように今晩のリクエストを求める。


「……お、お昼ご飯もまだだけど?」

「でも、どうせこのまま帰り道にスーパー通るんでしたら、買って帰ったほうが楽じゃないですか?」

「……まあ、そうだね」


「はい、そういうわけですので、今晩、何がいいですか?」

「えっ、えーっと……じゃあ……」


 ……ああ。あと、稲穂さんには、ちゃんと話さないと駄目なんだろうな……。

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