第89話 それは、ちょっと困っちゃいましたね……
稲穂さんのときは色々とハプニングがあったけど、伊吹に関しては何か特筆すべきことは起きなかった。そもそも座る順番が違うので、胸を押しつけられることもなかったし、ちゃんとサイズピッタリの水着を買ったので、水着が外れてしまうなんてこともなかった。そもそも、今日の伊吹はセパレートではないから水着が外れる心配も無用。
稲穂さんよりも絶叫の耐性もあったみたいで、それなりに楽しみながらスライダーを滑っていたと思う。
このまま平和に終わるのかなーとか淡い期待を抱いたりもしたけど、そこはさすが伊吹というか。
「悠乃くん悠乃くんっ」
「ん? ど、どうかした?」
スライダーも終わりに差し掛かった頃。後ろを振り向いた伊吹は右手を伸ばして僕の手を掴み取る。
「えっ? い、伊吹っ? それ、危ないんじゃ──」
僕がそう言ったときにはタイムオーバーで、座っていたボートが重力に負けてプールに着水したと同時に、伊吹と一緒に僕はプールに落ちていった。
「けほっ、こほっ、い、伊吹、急にどうしたの?」
今度は怪我なく着水ができた。伊吹もケロリとしたまま、ある場所を指さす。
「写真、撮ってくれていたみたいで、それでっ」
そこには、なるほどウォータースライダーのゴール地点で撮影した写真を販売するコーナーが。稲穂さんは気づいていなかったのか、それとも節約のために何も言わなかったのかわからないけど、どうやら伊吹は欲しいみたいだ。
「ちょっとお財布取ってきまーす」
僕が何か言うよりも先にコインロッカーに駆け出す伊吹。もうすっかりテンションも元通りみたいだ。
それならそれで、まあいいか。
「ありがとうございましたー」
財布を取って来た伊吹は、話した通り僕とのツーショット写真を一枚購入。ほくほくした顔で大事そうにレジ袋に入ったそれを抱えていた。
「……そ、そんなに嬉しいの?」
「そりゃそうですよっ。だって悠乃くん、滅多に写真撮ろうなんて言わないですし、私が撮ろうとしても嫌がりますしっ。こういう機会でもないと貰えないんですから」
……うん、それに関しては自覚があるんだけどさ。いや、オタクの習性だと思うんだけどさ、自分の顔なんて鏡で見るからもうお腹いっぱいじゃん。写真でまで見たくないわみたいなところがあるし、それなら綺麗な風景とか撮っておきたいし。僕だけかな、僕だけかもね。
「……にしても、なんか雲かかってきたね。これから降るのかなあ」
ウォータースライダーから一旦荷物を置いた拠点に戻ると、僕は薄暗くなった空を見上げる。ここ一時間で一気に空模様が怪しくなっていて、今にも雨がパラつきそうな感じだ。
「そろそろいい時間だし、帰る準備する?」
「そうですね、私もウォータースライダーできたので、もう満足ですっ」
「おっけ、じゃあまた各々着替えて入口のところで待ち合わせね──って」
そんなことを話していると、ポツ、ポツと頭を叩かれる感触が。
「……まじか、ほんとに降ってきたよ」
懸念通り、雨が落ち始めた。周りの人たちも屋根のあるところに移動したり、僕らと同じように撤収し始めたりしている。
「ぼ、僕らも急ごう、荷物が濡れちゃう」
「はっ、はいっ」
伊吹と一度別れてから三十分後。朝と同じワンピース姿の伊吹が待ち合わせ場所にやって来た。
「す、すみません、時間かかっちゃって」
「ううん、全然。……それより、雨が」
雨は弱まる気配はなく、それどころか強くなっているように思える。風も吹きつけるようになっていて、時折近くの木々の葉がガサガサと揺れる音が聞こえてくる。
「折りたたみ傘は念のため持ってきているけど、多分あんまり意味がないだろうし……」
「止むまで、待ちます?」
「うーん……。天気予報見ているさ、一晩中降るかもしれないって。……予報とは一体なんだったんだろう」
「そ、そうなんですね。それは、ちょっと困っちゃいましたね……」
「とりあえず、様子見も兼ねて、これからどうするか悩もっか」
晩ご飯も済ませないといけないので、その辺のことも考慮にいれないといけない。慌てて行動に移すと痛い目を見るかもしれないし、伊吹と相談してから決めよう、と思ったんだけど。
それが、結果的には悪手になってしまったと気づくのは、これから一時間後のこと。
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