第85話 誰? こんな心臓がキュウってなるいけない薬みたいな遊び考えた人、極悪人だよお!

 知ってたけどね! 知ってたけどさあ! 

 いざ背中に直に(いや水着という薄布一枚は挟むけど)あの胸が当たると、あれがあれでああなってしまうもので。


 そっちに意識がどうしても向いてしまうから、高速で流れ過ぎていく湘南の海沿いの景色も何も楽しめたものではない。


「ひぅぅぅぅ! 誰? こんな心臓がキュウってなるいけない薬みたいな遊び考えた人、極悪人だよお!」

 僕にとってはあなたの胸が今しがた極悪人になってますよ。さらに不運だったのは、稲穂さんが手を滑らせたのか、ハンドルから手を放してしまったみたいで、


「きゃっ!」

 ふぎゅっ、と僕の背中に胸の次は稲穂さんの吐息が直にぶつかる。そして、完全に僕が稲穂さんをおんぶするような体勢に近くなってしまった。


「はわわわっ! いっ、石原くんごめんっ! そっ、そんなつもりじゃっ! ひぅ!」


 こうなると、猛スピードで滑走する稲穂さんの体を支えるのは僕の背中だけになってしまい、言ってしまえば僕が命綱、安全バーみたいなもの。

 スタート地点であんなにガクガク震えていた稲穂さんが、果たして目の前にある安全バーを使わないわけもなく、


「っっ! いっ、稲穂さんっ?」

「ううう! やっぱり怖くて無理だようう!」

 次の瞬間、伸びていた両足でがっちりと僕にしがみついてきた。向きが向きなら、俗に言うだいしゅきホールドになる。


 ……ああ、イラストコミュニケーションサイトとかでしか見たことがなかったそれを、まさかウォータースライダーの上で感じるときがくるなんて、一体誰が予想できただろう。


 単純にふたり分の体重がかかったわけで、感じる速度もおかげでどんどん速くなる。速くなれば稲穂さんはさらに怖がって、僕へのしがみつきを強くさせる、のスパイラル。


 そんなことをしているうちに、やがてゴールが見えてくる。


「いっ、稲穂さん、そろそろゴールなんで、せめて足だけでも離さないと危ないです!」

「う、うう、そ、そんなこと言われても怖くて離せないよう」

「いや、ほんとに冗談抜きで怪我しちゃうかもしれないので──」


 ただ、気づくのが遅かったというか、ゴールが見えてからゴールの話をしていては到底間に合わなかったというか。


 僕がそう言っている間に、スライダーは終わりを迎え、

「きゃああ!」

 ボートに乗った僕らはくっついたまま、プールのなかへと着水した。


 当然、そんなイレギュラーな体勢でプールに入れば、ボートからも落ちてしまうし、落ちた後に泳いで体を立て直すこともできるわけがない。

 おかげで、僕の腰くらいまでの深さしかないプールに見事に沈んで、目と鼻の先に一瞬底が見えてしまう始末。


「ぷはっ……はぁ……はぁ……」

 落ちた拍子に稲穂さんも僕から離れたのか、水に沈んだ後は比較的容易に立ち上がることができた。


「……い、稲穂さん、大丈夫ですか?」

「だ、だいじょうぶかもー」

 遅れて稲穂さんも水面から顔を出す。ただし、よく見ると、稲穂さんの肘だったり膝だったりがちょっと擦りむいて血が出ている。


「って、全然大丈夫じゃないですか」

 恐らく、着水したときにバランスを崩して、プールの底を擦ってしまったのだろう。


「へ? あ、全然大丈夫だよ、これくらい、弟妹の面倒見てるときも普通にあったし」

「……そうかもしれないですけど、傷とか残ったら嫌じゃないですか、稲穂さんだって女の子なんですから。確か伊吹が絆創膏もカバンに入れていたはずなので、荷物のところに戻りますよ」


 ボートを返してから、稲穂さんの手を引いて、僕は荷物を置いた拠点に向かう。

 きっと、そこには伊吹もふくれっ面をしながら待っているだろう、そう思っていたのだけど、実際はそうではなかった。


「あっ、あの、わっ、私今日ほんとに人と来てて」

「いいじゃんいいじゃん、こんな可愛い子をほったらかしにする友達なんか気にしなくて」

「とっ、友達じゃなくて」


「えー? まさかの彼氏? だったなら尚更やめておきなって、三十分もプールに放置するなんてさー。いつどこから俺らみたいにナンパされるかわかったものじゃないのにさー」

「やっ、やめて……ください……」

「ね? ほら、行こ―よ行こーよ、きっと楽しいからさっ」


 次のとき、助けを求める捨てられた子犬のような目を浮かべた伊吹が、キョロキョロと辺りを見回していた。


「は、悠乃くん……助けて」

「……すみません、ちょっとだけ待っててください、稲穂さん。すぐ戻るんで」

 気がついたら、足は勝手に動き出していた。

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