第59話 人の家で、何盛っているんですか?

 ──なんでも言うこと聞いてあげるよ?

 この言葉を女の子から言われて、一瞬でも脳内がピンク色に染まらない奴はいない、と思う。基本。


 それくらいの威力を持った魔法の言葉である。こと二次元では、使い古しすぎてもはや新品の台詞が発注されたんじゃないかと思えるくらい頻出のワードだろう。


 この間、数瞬。僕は言葉に詰まっている間、捨てられた子犬のように瞳を揺らしている稲穂さんをじっと見つめていたが、やがて理性がこれ以上の直視に耐えられなくなり、パッと視線を逸らしてしまう。


「……?」

 落ち着け落ち着け落ち着けえ? 今隣の部屋では伊吹がお風呂に入っているんだ。その間に伊吹の部屋でごにょごにょし始めるとか、どんな十八禁だ。

 僕の沈黙に、どうやら稲穂さんも自分が言ったことの意味に気づいてしまったみたいで、


「はわわわわわっ」

 ……まあ、一回僕のこと押し倒しましたからね、稲穂さん。わからないわけがない。


「べっ、べつに、わ、わたしはべつに、そっ、それでもいいけど……はぅん」

「……仮にそれをお願いしたとて他人の家で事に及ぶほど心臓に毛は生えてないです僕」

 お願いしないし。お願いしないよ? お願いしないからね?

 大事なことなので三回言いましたが。


「……そっ、それに、両親もバイト先潰れたの把握しているから、遅かれ早かれこのピンチをどうやって脱したのか聞かれるだろうし……そのうち、石原くんのこと、親に知られると思うし……」


 思うし? 思うしなんですか? きっと親に紹介する展開になるだろうから先に既成事実だけでも作っておきましょうってことですか?


 なんだろう、僕の周りには既成事実というか、僕の意思関係なしに何かを進めようとする女の子しかいないのだろうか。……周りに女の子ふたりしかいないけど。……寂しくなんてないけど。


「……えっと、ご両親に僕のこと話すのは全然いいんですけど、あくまで事実だけを伝えてくださいね? ほんとに、冗談抜きで」


 この稲穂さんの様子を見るに、半ば本気で命の恩人的扱いを受けそうな気がしてきた。それが稲穂さんだけならまだしも(まだしもではないが)、稲穂さんファミリーからとか真面目に胃がもたない。なんだったら一周回って囲い込まれそう。


「んー、でもどうだろう。借りは少しでも利子を低く、恩は百倍にして返せが口癖だったからなあ、お父さん」

 そういえば、胡麻家の家訓は「借金と借りは熱いうちに返せ」でしたね……。

 やばいなあ、そこはかとなくやばい気がしてきたなあ。僕、普通の友達が少ない(いない)男子大学生のはずだったのになあ、なんでこんなことになっているのかなあ。


「……あのー、僕としては別にそんな大したことしたつもりはないんで、本当に気持ちだけで嬉しいんですけど……」

「でっ、でもっ、それじゃわたしの気が済まないっていうかっ」

 まあ、これで解決するなら、端から僕はそんなに困ってはいない。


 固辞しようとする僕に、稲穂さんは四つん這いに近い体勢で近づいて来ては、さっきよりも目をウルウルと揺らせるではないか。「わたしに何もさせてくれないの?」って訴えかけてきてる。多分。


 その濡れた瞳が少しずつ、少しずつだけど大きくなっているなと思えば、なるほど、稲穂さんが僕に近づいているんだ。


「えっ、えっと……い、稲穂さん?」

 その顔が、定規一本分にも満たないくらいの距離にまでになったタイミング。何の因果か、はらりと稲穂さんの着ている部屋着のシャツがずれて、華奢な白い右肩(プラス水色の何か)が露わになって、そして、


「今あがりましたー、先胡麻さん入りますよね……」

 二度目となるであろう、限りなく最悪なタイミングでのエンカウント。まだドライヤーで乾かしていない髪を触っていた伊吹は、ぱた、とその手を力なくぶら下げたと思えば、


「……人の家で、何盛っているんですか? 胡麻さん」

 およそお風呂上がりとは思えないほど凍った声音で、口にした。


「あうっ、えっ、えっとこれはっ、そっ、そのっ、躓いちゃってっ」

「へー、そうなんですねー。でしたらお風呂空いたので入られたらどうでしょうか?」

「うっ、うん、そ、そうするね、あはははー」


 すると、稲穂さんはそそくさとリュックサックから着替えとバスタオルを持ち出して、逃げるように僕の家へと向かっていった。ガタン、と伊吹の家の玄関が閉められると同時に、


「それで? 一体私がいない間に何をされていたんですか? 悠乃くん」

 いい香りをこれでもかと漂わせる幼馴染が、稲穂さんとそっくりそのままポジションを入れ替わって詰め寄ってきた。


「……いやっ、そ、その、お礼させてって……」

「へえ、お礼ですか、へー」

 ……そこはかとなくなんかではなく、ガチでやばい気がしてきた。

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