第58話 ……悠乃くんには女心を勉強してもらわないと駄目な気がしてきました

 さて、稲穂さんを緊急に伊吹の家に出迎えたことにはなったけど、稲穂さんは勉強できるスペースさえあればいいということで、基本僕の部屋の勉強机を貸してあげることになった。……別に伊吹の部屋のでもよかったのだけど、ほら、高校生と大学生(遊んでばかりの文系)って、高校生のほうが勉強するでしょ? それなら、眠りがちな僕の机を貸してあげようってことになったわけだ。


 ……それを聞いたとき、伊吹がぼそっと「……悠乃くんには女心を勉強してもらわないと駄目な気がしてきました」と呟いたように思えたけど、怖すぎるので触れないことにした。


 そんななか迎えた土曜日の夜のこと。例によって晩ご飯は伊吹が作り、稲穂さんも交えて三人で食べた後、それぞれの家に戻って夜を明かそうとなったのだけど。

 テーブルに置いたパソコンに向かってカチャカチャとキーボードを叩いていると、ふとガチャガチャと閉めた玄関の鍵が開けられた。


「んー? 伊吹―、どうかしたー?」

 時刻はもう十一時近くで、こんな時間に家に来るのはさすがに珍しい。首を伸ばして玄関のほ様子を窺うと、困り眉を作った幼馴染が、


「えーっと……給湯器の調子が悪いみたいで、お風呂が沸かせなかったんですよね。悠乃くん、お風呂はまだですか?」

「う、うん。まだだけど……」

「悠乃くんの部屋で、お風呂入れさせてもらえませんか?」


 そう、頼み込んできた。ちなみに、伊吹の背中に隠れる形で、稲穂さんがおずおずと部屋のなかを覗き込んでいる。

 僕だったら一日くらい、となってしまわなくもないけど、女の子にとって一日でもパスしてしまうのは気持ちが悪いのも理解はできる。それに今は土曜の夜だ。業者に電話したとしても来てくれるのは週明けとかだろう。


 となると、僕に残された返事は「……い、いいけど」のひとつしかないわけで。

 結果、十一時過ぎに、伊吹が僕の部屋のお風呂掃除を始める結果になった。


 ただし、お風呂を貸すにあたって、ひとつ、たったひとつではあるけど重大な問題があった。


 そう、それは、

「……あれ? で、でも……石原くんのお部屋、脱衣所ないよね……?」

 浴室と部屋が直接繋がってしまっているという点だ。


 普段は野郎のひとり暮らしなので、部屋で素っ裸になろうが何ひとつ問題はない。

 ただし、これが異性と過ごすとなると話は別だ。誰かに言わせれば神っているところまで行っている恋人同士ならまだしも、幼馴染、大学の先輩後輩だ。それはハードルが高過ぎる。


「……ええ、ないですね。ちなみに伊吹の部屋にもないですよ。同じ部屋のつくりをしているので」

 となると、解決案はたったひとつしかない。


「……え、えっと、家主がいない部屋にふたりっていうのも、なかなか珍しいね」

「そうですね」

 僕らが採った案は、僕の部屋そのものを脱衣所にしてしまう、というものだ。お風呂に入らないふたりが伊吹の部屋で待つ。それだけだ。単純だけど、これが一番わかりやすいし間違いがないだろう。


 お風呂が沸いて最初に伊吹が入ることになったので、こうして家主がいない部屋に僕と稲穂さんが待つことになった。

「……その、ありがとうね石原くん」

 順番を待つ間、カーペットの敷かれた床にちょこんと座った稲穂さんは、ふとそんなことを口にした。


「おかげで、大学辞めずになんとかなりそうだよ」

「テストは順調ですか?」

「……おかげ様でね。ほんと、感謝してもしきれないよ」

「それはよかったです」


 先輩は、もじもじと折りたたんだ両膝をこすりあわせ、右手で色づいた頬を掻いてから、さらに続ける。


「で、でね。こ、このお礼っていうか、埋め合わせ、なんだけど……」

「? 食費でしたら、そのうちでいいですよ?」

「あっ、いやっ、そ、そういうことじゃなくてね?」


 すると、どういうことかと言うと、

「い、石原くんっ、な、何かわたしにして欲しいこと、ある?」

 つまりは、こういうことだった。


「なっ、なんでもいいよ? お、お金が必要なこと以外だったら……。それくらい、石原くんには助けられちゃったから……」

 鶴の恩返しならぬ、稲穂の恩返しが始まろうとしていたんだ。


 僕はしばらくの間、言葉に詰まってしまっていた。

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