第43話 えええええええええええええええ!

「え、えっと、こっ、これはそのっ」

「ちちちちがうのっ、ちょっ、ちょっと机の脚にわたしが足引っかけて」


 しどろもどろになりつつもなんとか誤魔化そうとする僕と稲穂さん。しかしまあ絵面が妻の外出中に堂々と自宅で不貞を働こうとした夫と浮気相手の言い訳というか。……リアルで見たことはないけど。


「机の脚に引っかけて胸元のボタンまで外れるかなあ」

 憮然とした表情のままの伊吹は、相も変わらず凍りついた声音で僕らを追及する。

「うっ、うう……」


 がしかし、伊吹の言うことは正論も正論で事実も事実なのでぐうの音も出ない。稲穂さんは体を縮こまらせながらしょんぼりとした様子でボタンを留め直す。


「……まあいいです。どうせおっぱいさんが悠乃くん押し倒して色々しようとしただけでしょうし。そうですよね? そうに決まってますよね?」

「ははは……そ、そんなところだけど」

「じゃあ、とりあえずそこに座ってください」


 伊吹はすると、カバンからクリアファイルを掴むと、何やら見覚えのある、言うならばちょうど一か月前くらいに目にした記憶がある紙を一枚持ち出した。


「悠乃くんが二十歳になった、っていうことで。悠乃くんのほうは悠乃くんの署名だけでオッケーになったので」

「ふぇっ、こ、これって婚姻届……」

「どうぞっ、誕生日プレゼントは、私ですよっ、悠乃くん」


 ついさっきまで北海道の凍った水道管みたいな様子だったのに、婚姻届を僕に差し出した途端、花が咲いたみたいに満面の笑みを浮かべる。

 ……こんなピュアすぎる「プレゼントは私」はかつてあっただろうか。いや、他のパターンだと、裸エプロンならぬ、裸リボンとかやりかねないから。エロゲのやりすぎと言われればそれまでなんだけど。


「…………」

 そして、僕は僕で固まるし、稲穂さんは稲穂さんで、


「……なんだろう、言っていることはわたしと同じはずなのに、どうしてわたしが汚い大人みたいに見えるんだろう……」

 五つ学年が下の女子高生に引け目を感じている。っぽい。


「──って、そうじゃないそうじゃないっ。かっ、仮に石原くんがそこに署名したとしても、婚姻届は二十歳以上のふたりの証人の署名が必要でっ──」

 しかしここはさすが法学部(関係あるかは知らないけど)の稲穂さん、すかさず反撃を試みようとするけど、


「他人の男性を勝手に襲う人が何を言っているんですか、おっぱいさん」

「そっ、そもそも石原くんは松江さんのものじゃ」

「それに、その件なら大丈夫ですよ。既に悠乃くんのご両親にも話を通しているので、悠乃くんが署名してくれたら、一度実家に戻ってサインしてもらうつもりですから」


 この件に関しては用意周到の伊吹。稲穂さん反撃のストレートをあっさりとピッチャー返し。


「うっ、うぐ……」

 伊吹・伊吹の両親の同意・証人の確保と、障壁が全て解決していて、後は僕本人の署名だけ、という状況を理解したのか、稲穂さんは両手を床についてしまう。


「はい、悠乃くん、ボールペンです。どうぞっ」

 そんな稲穂さんを気にも留めず、伊吹は自分の筆箱からちゃんと消せないボールペンを手渡す。もはや稲穂さんに指摘されるところはもうありませんよ、みたいな。


 いやいやいや、能書きはこれくらいにしておいて実際問題学生結婚って、色々どうなんですか。片っぽが社会人ならともかく、僕らのパターンはどっちも学生だからね。扶養とか色々どうなるの。


 などと、ウダウダと考えていると、別の意味で吹っ切れてしまった稲穂さんが、ゆっくりと立ち上がったかと思うと、スタスタと伊吹のもとに歩み寄って、


「ど、どうしたんですか? おっぱいさん、そんな無表情で近づいて。そんな顔したって悠乃くんは渡しませんからね──」

 かと思うと、ちっちゃい背を目一杯伸ばして、伊吹が持っていた婚姻届を奪って、


「えっ、ちょっ、き、急に何を──」


「えいっ!」


 ビリビリビリと、それはそれは気持ちいいくらいに婚姻届をまっぷたつに破いてみせた。


「「えっ」」


 あまりに急な出来事だったので、僕と伊吹はしばらくの間、言葉を失ってしまった。そして、時計の秒針が三六〇度回転し切ったくらいの頃に、


「えええええええええええええええ!」

 絶叫に近い伊吹の悲鳴が、部屋にこだました。


「なっ、何しているんですか、こ、こんなのありなわけないべさ!」


 思わず緩い方言が漏れてるし。


したっけそうしたら、こ、これじゃあ、あれ? あれ? あれええええ?」


 床に散らばる、婚姻届の破片が、とても虚しく映ったのは、気のせいではないはず。

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