第32話 ま、まだ、帰りたくない、なぁ……って
注文したものが届いてからも、僕と稲穂さんは無言でうどんを食べる機械と化していた。何か口を開けば気まずい空気になる、そんな予感がしていたから。
……僕も、正直すするうどんがティッシュに見えるくらい頭が逝っていたから、下手に口を開けばつゆを吸ったご飯を盛大にむせたことだろう。
「「ごちそうさまでした」」
そんなふうにご飯を食べてしまえば、そりゃあっという間に食事も終わってしまうもので、僕らより先にお店にいたはずの男子大学生ふたりのグループよりも先にお店を後にすることになった。
しかしスピードとは裏腹に、稲穂さんは満足そうに頬を緩ませてはお腹をさすっていた。
「うう、食べた食べた……久し振りに美味しいご飯食べた気がするよお……」
「それはよかったです」
食後の余韻に浸っている先輩を横目に、僕はちゃっちゃとレジで会計を済ませてしまう。稲穂さんが財布を取り出すよりも先に。
こういうとき、電子マネーってやつは一瞬で清算が終わるから便利だ。ものの数秒で会計が終わり、店員さんから「ありがとうございましたー」の声が上がったのを聞き、稲穂さんはようやく我に返って、
「あっ、あれっ? お、お会計はっ? 石原くんっ?」
瞳をまんまるくさせては、僕の周りをちょろちょろと動き回る。
「いいですいいです、言ったじゃないですか、晩ご飯くらい奢りますって」
「えっ、でっ、でもでも、それはさすがに悪いというか」
「気にしなくていいですって、こういうのは素直に奢られておいたほうがお得ですよ」
「でっ、でも……」
「はい、そろそろ深い時間ですし、もう家に帰りますよー」
それでも財布を開いて、小銭を取り出そうとする稲穂さんを尻目に、僕は駅の方角へと歩き出す。
「ええっ、ああっ、石原くん、まっ」
稲穂さんを敢えて振り切るためにも、ちょっと早足で歩いていたはずなんだけど、どうやら稲穂さんのほうが一枚上手だったみたいで、僕の肩に細い腕を伸ばしてきたかと思うと、
「ど、どうかしましたか?」
「……ま、まだ、帰りたくない、なぁ……って」
ほのかに頬を赤らめては、僕にそう囁いた。
「……うっ、うぐっ」
そんな、ある種「オーケーサイン」とも取れるひとことを聞いてしまって、揺るがずにいられるほど僕に余裕なんてなくて、早足だった足は地面に紐で縛り付けられたかのようにピタリ、と動かなくなってしまった。
「か、帰りたくないなあって言ったって、二次会行くんですか? カラオケとか? でも、それじゃあまたお金が」
「……え、えっと、あれだよ。石原くんの家で二次会しよ? それならお金かからないし」
「……今から僕の家で二次会したとして、帰るの何時になるんですか」
「う、うーん、一時過ぎとか?」
「……普段から忙しいのわかっているのに、夜遅くまで連れ回すのはできないですよ」
「つ、連れ回されてなんかないよ? 石原くんの家でゆっくりするんだから」
そういうのを世間ではきっと屁理屈、って言うんですよ。
しかし、弱ったなあ。夜遅くに稲穂さんを部屋に連れ込んだなんて伊吹が知ったら、またグチグチ言われてしまう。グチグチ言われるくらいで済めばいいけど、下手をすればまた停電のときみたいにお泊まりしますとか言いかねない。……割とマジで。
思考回路をフル回転させて、状況を整理していると、ポケットに入れていたスマホがピロリンと音を鳴らした。
「……誰だろ。って、げ」
松江 伊吹:いつ頃お家帰られるんですか? 結構もう遅い時間ですけど
松江 伊吹:悠乃くんの家のテレビで、映画見て待ってますね
完全に猫一匹もとい、ゴマちゃん一匹通さない構えの伊吹からのラインが、連続して届いていた。
「ん? どうかした──あー、こ、これは……」
僕の声に反応した稲穂さんは、スマホ画面を覗き込むと、途端に苦笑いを作る。
「……ま、松江さんが待ちくたびれちゃうだろうし、もう解散にしよっか」
「は、はい……。そうしましょう」
僕と稲穂さんは、そうして複合施設を後にして、僕は家路へと、稲穂さんは駅の改札へとそれぞれ向かって、今日のデートは終わりを迎えた。
真っ暗な夜道をひとりで歩くなか、
「……帰ったら根掘り葉掘り聞かれるんだろうなあ、飲み会だとは言っていたけど」
独占欲が強い幼馴染へと応対をどうするか、頭を巡らせていた。
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