第20話 悠乃くんが喜んでくれるなら、それで
「ほっ、ほらっ、今僕ゴム持ってないですしっ、ま、万が一のことがあったら大変じゃないですかっ」
絞り出したひとことは、稲穂さんを思いとどまらせるには十分だったようだ。
「できちゃったら稲穂さんが今頑張っていることも全部パアになっちゃうかもしれないし、さすがにそんな重荷背負ってまで快楽に溺れたくもないですし……」
っていうか、第一まだ付き合ってすらいないのに肉体関係は問題しかない。
「うっ、うう……そ、それは石原くんの言う通りだけど……でも、でも……」
「あっ、あと、何度でも言いますけど、伊吹とは別に今々はただの幼馴染ですからっ」
「なんかこれから恋人になるみたいな含みがあるよねっそれっ」
……否定はできない。僕も思わず保険を掛けてしまったのが怖い。
「と、とりあえず……い、一回降りてもらっていいですか? こ、この体勢、何かと色々あれでして……」
「へっ? あっ……。う、うん……ご、ごめん……」
僕がそう言うと、稲穂さんは恥ずかしそうに「よいしょ」と口にしつつ、僕の上から降りて床にちょこんと女の子座りをする。
というか、そこで恥じらうあたり、やっぱり多少は無理をしていたんじゃないですか。
稲穂さんがどいてくれたことで、ようやく体の自由が戻った僕は、
「……ぼ、僕、もう帰ってもいいですか?」
「えっ、あっ」
「財布届けるつもりだけだったので、あまり長居する気もなくて……」
「そっ、そうだよねっ、ご、ごめんね引き止めちゃって、っていうかわたしも今晩バイト入っているの思い出したよ、あははは……」
「じゃ、じゃあ……僕はこれで……」
どこか気まずい、奥歯に物が挟まったような空気感のまま、僕は稲穂さんの家を後にした。うっすい扉の向こう側から、
「……ゴムあったら、最後までしてくれたのかなあ……」
という恐ろしいひとりごとが聞こえてきたけど、もう聞こえなかったことにした。
稲穂さんに襲われかけたことで、大分時間を使ってしまった。別に僕にこの後用事はないから、焦ることはないのだけど、根っこがインドア派の僕にとっては、ある意味早く家に帰るのが趣味みたいなところがあるから。……寂しくなんてないけど。
最寄り駅で家へと向かう各駅停車を待っていた……のだけど、なかなか電車はやって来ない。ベンチに腰かけて持ち歩いていたラノベを読んで暇を潰してはいたけど、それにしてもなかなか来ない。
「って、電車止まってる⁉」
不思議に思い、ホームの行先案内器に目をやると、赤い文字で運転見合わせと表示されていることにようやく気づいた。しかも人身事故と来たので、かなりかかりそうだ。
……どうりで電車が来ないわけだ。
でも、困ったなあ……結構今日だけで相当な距離歩いたから、ヘトヘトだし、精神的にもヘトヘトだから、歩いて帰る元気もないんだよな……。
仕方ない、時間かかるけど、運転再開するまで待つか……。
結局、心身ともに疲れ果てた僕が家に帰れたのは、夜の八時過ぎ。
「……伊吹もさすがに先にご飯食べちゃってるだろうなあ……こんな時間だし」
自室でスーツを脱いで部屋着に着替えて、晩ご飯を共有するならと受け取っていたスペアの鍵で隣の伊吹の家に入ると、
「…………」
そこには、テーブルに晩ご飯を用意したまま、寝落ちてしまっている幼馴染の姿があった。見るに、まだ伊吹もご飯は食べていない。
炊飯器の保温のタイマーに目をやると「3時間」の表示がされている。っていうことは、
「……三時間も待ってたの……伊吹?」
テーブルに突っ伏して、規則正しい寝息を立てている彼女に、思わず僕はそう呟く。
物音と僕の声で目を覚ましたのか、
「んんん……あ、悠乃くんだ、お帰りなさい……」
ごしごしと目をこすりながら、少しふにゃけた声で伊吹がテーブルから顔を上げた。
「ごめんなさい、私、寝ちゃってたみたいですね……」
「いっ、いや、伊吹が謝ることじゃ……っていうか先に食べててよかったのに……」
「え? ……だって、ひとりでご飯食べるの、寂しいじゃないですか。それに、こういうとき、悠乃くんは必ず待っててくれましたし」
フラフラと立ち上がって、味噌汁を温め始める伊吹は、なんでもないふうに話す。
「……これも、いいお嫁さんになるための秘訣、ですよ?」
「……帰りを待つまで晩ご飯を我慢するのが一般的な美談になるのはあれな気もするけど」
「じゃあ、悠乃くんにとっての、でもいいですよね?」
……ま、まあ。
「そもそも……一般論なんて関係ないですし。悠乃くんが喜んでくれるなら、それで」
……一枚上手というか、伊吹には敵わないというか……なんというか。
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