第18話 べっ、別にさっきまで石原くんのこと考えて悶々としてたわけじゃ──
「さて、財布を届けに行くか……」
スーツのまま、僕は電車に乗り込んで稲穂さんの家へと向かいだす。家を出る前に送ったラインに既読はついておらず、稲穂さんの家の最寄り駅で降りてから一度電話を掛けてみるも、
「……出ないし」
何コールかした後に電話が切れてしまう。明らかに僕の目の前で財布を触ったのが最後なのだから、十中八九僕が拾うってわかってはいると思うのだけど……、
「もしかして、財布を落としたことに気づいていない……?」
いやいや、そんな馬鹿なことが……。そう疑念を持ちつつ、駅から三十分歩く稲穂さんの住むアパートに到着。まさかこんな頻度で家を訪れるとは思っていなかった。
胡麻、と書かれた表札の部屋の呼び鈴を鳴らすも、応答はない。
「……いないのか? それともまだ外出中とか……?」
けど、スマホすらチェックできない用事って、なかなかだと思うんだよな……。バイトは稲穂さんこの時間は入らないはずだし(時給が安いから)、まだ春休みだから授業があるわけではない。
「どうかしたのかな……」
不自然に感じた僕は、ものは試しと玄関の扉を開けようとする。すると、本来動くはずのない扉が、ギギギと錆びた音を立てて開くではないか。
「……え、ええ? 鍵、開けっ放し……?」
ひとり暮らしの女子大生としては、かなりいただけない不用心さだけど……。
「い、稲穂さーん? 入りますよー?」
玄関の三和土には、稲穂さんが普段使っているペタンコのスニーカーがきちんと揃えて置かれていたから、留守ってわけではないみたいだ。それなら、呼び鈴に返事がないのがおかしいのだけど……、
「稲穂さん? 財布……」
部屋に入って、玄関の鍵を閉め、ワンルームの奥のほうへと視線をやると、
「うっ、うううう……ううう、やっちゃったよお……財布失くしたよお……来月から野宿になって、もうお嫁にいけない体になっちゃうんだ、うううう……」
隅っこでカタツムリのように布団に頭を突っ込んで喚いている稲穂さんの姿が。っていうか、その体勢だと、お尻を突き出す形になっていて、なかなか目に毒というか……。
「あ、あのー、稲穂さん? 鍵、開けっ放しでしたよ?」
さすがにこの状況のまま突っ立っているわけにはいかないので、ピクピク震えている彼女の背中をトントンと叩くと、
「ひゃっ、ひゃあっ! ごめんなさいごめんなさいっ! 来月までには必ず利子分お返しするのでそれまで待っ──」
スポっといい音を立てて布団から顔を出したかと思うと、わきめも振らず僕に向かって平身低頭し始める。
「──って、い、石原くん? どっ、どうしてここに……す、スーツ着ているから、てっきち借金取りの人かと思ったよわたし」
「……あの、稲穂さん。本当にお金に困ったら、いつでも相談してくれていいですからね?」
「ちっ、違うよ? わたしは真っ当なところからしかお金借りてないよっ? 奨学金しか借りてないからねっ?
主語になんか嫌な響きを覚えましたが、触れないでおきます。
「どうもこうも、僕の目の前で財布を忘れるからですよ。ライン送ったのに、既読もつかないから心配したんですよ? 鍵だって開けっ放しでしたし」
「……あっ、そ、そうだったんだ、あ、ありがとう……。と、とりあえず、座っていいよ」
稲穂さんはゆらゆらとした動きで冷蔵庫に向かい「3%引き」と書かれた紙パックのお茶を取り出し、コップにタプタプと注いでみかん箱をふたつくっつけたテーブルのようなものに置く。
「お、お構いなく……財布だけ届けたら帰るつもりだったし……」
「えっ、で、でも、この間のときといい、今日のお財布といい、さっ、さすがに何もしないのは……ほっ、ほらっ、ねっ?」
僕をなんとか座らせようとする稲穂さん。ま、まあ、一杯くらいなら……と思い、腰を下ろすと、ふと、床に黒色の毛が落ちているのが目に入った。
……あれ? きちんと掃除しているイメージなんだけど、残っちゃったのかな……。
あまりまじまじと見るのもあれかな、と視線をコップに移そうとしたのだけど、あることに僕は気づいてしまった。
……この毛、ち、縮れてる?
稲穂さんの髪の毛はストレートだ。特にくせっ毛というわけではない。……と、ということは、この抜け毛は……。
「あれ? 石原くん? どうかしたの? 何かあった──っっっっ」
僕があんぐりと固まってしまっていると、稲穂さんも床に落ちている縮れ毛に気づいたみたいで、
「ちっ、ちちちち、違うのっ、ちゃんと毎日掃除はしているんだよ? たっ、ただ残っただけで、べっ、別にさっきまで石原くんのこと考えて悶々としてたわけじゃ──」
稲穂さん、ストップ、ストーップ! 墓穴、墓穴掘ってますそれっ!
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