第17話 ……悠乃くんと、不純な気持ちで身体を重ねる予定はないですけど?

 〇


「……稲穂さん、財布忘れてるし……いや、でもさすがに届ける時間は」

 稲穂さんの家と、伊吹の入学する高校は逆方向だ。財布を届けてから入学式に行く時間はさすがに残っていない。

 ……仕方ない、入学式の後に届けに行くか。ラインだけ送っておこう。


 僕はペタンコの財布をカバンにしまっては、稲穂さんが残したミックスサンドを食べきり、自分のコーヒーだけ飲み切って席を立った。

 ……さすがに、稲穂さんの飲みかけのコーヒーも飲む度胸はなかったので、飲み残し用のシンクにそっと流して、一旦家路へとついた。


 自宅から電車で五分、最寄り駅から徒歩十五分程度のとこにある、伊吹の通う公立高校の入学式は、まあ僕が知っているような式典だった。ただ、やはりというか、保護者席に座っているのはちゃんとした両親や祖父母の方ばかりで、僕みたいな二年前に高校を卒業したような子供は他にいなかったから、居心地はやや悪かった。ギリギリ、兄で通りはしそうだけど。


 ただ、そんな僕の胃をゴリゴリに削るのが、さすが伊吹というか。

 式が終わり、校門付近で桜の木を眺めて暇を潰していると、


「悠乃くん、来てくれたんですねっ、ありがとうございますっ」

 ホームルームが終わり、下校となった一年生が次々に生徒玄関を出ていくなか、伊吹は満面の笑みで僕のもとに駆け寄って来た。


 いや、それ自体は別に問題はない。端から見れば、兄妹仲のいいふたりにしか見えないから。……まあ、実際は家族ですらないのがあれなんですけども。


「伊吹のお母さんに頼まれたし……それに、誰も来ないのは寂しいかなって思って」

「……それって、頼まれなかったら来なかったかもしれない、ってことですか?」

 僕がそう言うと、伊吹は切なそうに俯いては、両手の人差し指をツンツンと突きあう。

 ……やべっ、なんか墓穴掘ったかも今。


「いっ、いやっ、そういうことじゃなくて、せっかくの晴れ舞台だし、見に行きたいなあとも思ってたし」


 伊吹を不安にさせると、キスという暴挙に出るかもしれないことを学んでいたので、僕は慌てて取り繕う。稲穂さんにわざわざ話すくらいだ、衆目があるなかでも唇を合わせようとしかねない。……さすがに高校の校門で高校生にキスなんかされた日には、社会的に死んでしまう。僕が。


 そう言うと、伊吹はホッとしたように胸花のあたりに手を当てて、

「ですよね、安心しました。だって、ですものね」

 と、なかなかにパワーのあるひとことをそれなりに普通のトーンで言い出した。その発言は、周りを歩いている一年生や、その保護者にも聞こえるくらいで、にわかに僕らの周りがざわつきだした。


「いっ、伊吹っ、ちょっ、ちょっとっ」

 このまま伊吹がもっととんでもないことを言い出してしまう前に、僕は彼女の手を引いて、一旦人があまり通っていない職員玄関のほうにはける。


「? どうかしたんですか? 悠乃くん」

「……いやっ、そのっ、あまり、大きな声で結婚を連想させるようなことは言わないほうが……いいかなって思って……」


「そんなに隠したほうがよかったですか?」

「……隠したほう、っていうか……。ぶっちゃけた話、高校生、珍しい話が好きだから、結婚なんて浮いた話が流れたら、一瞬で噂の種になるし」


「それはそうかもですけど」

「最悪、先生から不純異性交遊とか疑われて、停学とか喰らうかもしれないし、大っぴらにはしないほうがいいかなあって……」


 どうやら、伊吹にとっては「不純」のワードがあまり気に召さなかったようで、再び不満そうに目を細めては、


「……悠乃くんと、で身体を重ねる予定はないですけど?」

 くいっと唇の距離三センチまで詰めてくる。背伸びする足がプルプルと震えたと思うと、


「でも、わかりました。先生たちに悠乃くんとのことを邪魔されるのは嫌なので、周りにはあまり話さないようにしますね?」

 柔らかな表情とともに口元を人差し指で縦に割って「内緒ですね」の仕草を取る。


 幾分か幼さが残ったその行動と、揺れる制服のスカートのギャップに、僕は思わず言葉を失ってしまった。


「家に帰ったら晩ご飯作らないとですねっ。悠乃くんは、今日何食べたいですか?」

 駅へ歩き出した伊吹を見て、ようやく我に返った僕は稲穂さんの財布の件を思い出した。


「あっ、ご、ごめんちょっと僕、寄るところがあって」

「え、そ、そうなんですか?」

「ば、晩ご飯は食べるから。だから、あれだったら先に食べても……」

「わかりました。私、待ってますね?」


 それだけ言っては、伊吹は一足先に、最寄り駅へと歩みを進めていた。

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