第14話 べつにっ、はやくコーヒー飲みたくなっただけだよっ

 〇


 翌日。僕は朝早くから家を出て、久々に大学のキャンパスへと足を運んでいた。まだ授業期間は少し先だし、サークル活動とかがあるわけでもない。そもそも僕、サークルとかには入っていないし。


 じゃあ、何の用事かと言うと、健康診断だ。毎年春に大学が無料で実施してくれる。これを受けないと、体育の授業が履修できなかったりするので、何気に大事だ。

 ひとりで黙々と健康診断を回ると、それなりに短い時間で所定の診断は終わるもので、すぐに僕は会場の7号館を後にした。


 すると、すぐ隣の6号館から、同じタイミングで見慣れたリュックサックを背負った女子学生が目に入る。


「……稲穂さんも、健康診断だったんですか? 奇遇ですね」

「あれ? 石原くんだ。偶然だねー」

 健康診断の会場は当然ながら男女で分かれており、たまたま同じ時間帯に終わったのだろう。稲穂さんはちょっとだけ嬉しそうに口元を緩めては、


「あっ、ねえねえ、石原くん、この後時間あるっ? ちょっとお茶していかない?」

 くいくい、と僕の袖を引っ張る。さながら、飼い主を見つけた犬みたいだ。


「え? ……あー、一時間くらいだったらいいですけど、大丈夫なんですか?」

「へ? 何が?」

「いや、いつも寸暇を惜しむように勉強しているじゃないですか。それに、普段節約しているしで、珍しいって思って」


 多分、稲穂さんのリュックサックのなかには重たい重たい本が詰められているし、きっとこの後も大学の図書館で勉強していくつもりだったのだろう。

 それに、週四でバイトに入って、家賃や生活費は自分で出して、しかも残ったバイト代は実家に仕送るという生活ぶりの先輩が、月一の飲み会以外で僕をお茶などに誘うことが、とても稀有だったから。


「あっ、いやっ、ほらっ、この間家まで送ってくれたお礼だよっ。結局、松江さんに止められて、何もしないままだったしっ。コーヒー一杯くらいだったら、奢ってあげるよ?」

「えっ、いいですよ別に、コーヒー一杯くらいだったら自分で出しますし」

「いいのいいのっ、ここは先輩としての威厳を保つ場面なのっ」


 と、稲穂さんは小さい背丈をピンと伸ばして、主張の激しい胸を張ってはそう言う。


「……一時間って、この後何か大事な用事でもあるの?」

「あー、いや、午後から伊吹の入学式があるみたいなんで、それに行こうかなって思って」

「えっ」


「……なんでも、伊吹の両親は旅行中とかで、入学式行けないみたいで、代わりに僕に行くよう昨夜ラインが来て」

 ……そのラインの文末に、どうせ今年中に家族になるんだから問題ないよね、とも付け加えられていたのは内緒だ。


 ひとり娘の高校の入学式に行かないのも大概だけど、それを未成年の幼馴染に頼むのもすごいけど、さらにどうせ結婚するんだからいいよねとまとめるのがなかなかえげつない。


「ま、まあ伊吹も入学式に誰も家族が来てくれないのは寂しいだろうし、ってことで」

 家に帰ってスーツに着替えて高校に行くタイムリミットが、一時間ってわけだ。


「……む、むう……」

 僕がそう説明すると、さっきまで嬉しそうに口元を緩ませていた稲穂さんは、途端にむすっとした顔つきに変化したと思えば、


「おっ、おわっ、ど、どうしたんですか急にっ」

 僕の右手を強引に引いては、大学生協が運営している喫茶スペースへと歩きだす。ぷに、っとした柔らかい感触が僕の手のひらに広がり、なされるがまま僕は連れられていく。


「べつにっ、はやくコーヒー飲みたくなっただけだよっ」

 絶対それだけじゃないでしょ……とも思うけど、それを言うとさらに手の力が強くなりそうな気もするので、何も口にはしない。


 すぐに学食と併設している喫茶スペースに入り、稲穂さんは、

「アイスコーヒーふたつにミックスサンドひとつお願いします」

 と、あっさり注文口でオーダーを済ませたかと思うと、僕が財布を取り出す前に、

「パスモで払います」

 と、コーヒーどころかミックスサンド代まで支払ってしまった。


 ふたり掛けのテーブル席について、トレーに載ったコーヒーとミックスサンドを置いた。


「いいよ、石原くんも食べて」

「えっ、で、でもっ」

「お昼ご飯には多すぎるかなあって思うからっ、石原くんも食べてっ」


 ええ? なんで少し怒っているのにコーヒーとサンドイッチは奢ってくれるんだ、この先輩。意味がわからないよ。そして、稲穂さんはアイスコーヒーをひとくち飲むと、


「……石原くん。松江さんが石原くんとキスしたって言ったけど、それ本当なのっ?」

 ぐいぐい身を乗り出しては、どこか必死な雰囲気を稲穂さんは漂わせる。


「結婚って言ってたけど、それも本当なの? ──あっ」

 そこまで話すと、稲穂さんはしまったと口元に手を当てて、何やら慌て始めた。

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