第9話 まさか、その下品なくらい大きな胸で、悠乃くんにご奉仕する、とか言い出しませんよね

 家の前で伊吹にキスをされてからというもの、心臓のあたりがむず痒くなる感覚が、終始僕に走っていた。「責任取ってくださいね」という、定番の決め台詞を放った伊吹は、それからすぐに自分の部屋に戻っていくし、僕は僕で何がなんだかわからないまま、豆球だけ残してベッドの上で悶々とした時間を過ごしているし。


「……伊吹も初めてだったかもしれないけど、僕も初めてだったんだよな……あれ」

 ファーストキスはレモンの味、とか言いますけど、正直味を感じるほど余裕なかったし、なんだったら鼻先至近距離に映る伊吹のキス顔に終始脈が速くなるのを自覚していたし。


「……これから結婚するから、って言ったって……」

 明日、どんな顔して伊吹に会えばいいかわからないし、伊吹が泣きだしそうなのを察して伊吹の言うことに気安く頷いちゃったし……。


 事態がややこしくなっただけ、な気がしてきた……。

 結局、つまるところ何が言いたいかというと、

「……寝られない」


「……んん、やば、もうお昼回ってるじゃん」

 ようやく眠りにつけたのは、カーテンの隙間から朝陽が差し込んで来た頃で、そんな時間に寝てしまえば、当然まともではない起床時間になってしまう。目が覚めて、スマホで現在時刻を確認すると、午後の一時。


 まあ、大学生のひとりぐらしだと、こういう生活も当たり前っちゃ当たり前なんだけど。特に長期休暇だと。

 寝ぼけ眼をこすりながら、外に出てポストの中身を確認しようとすると、


「むむむむむむむ」「……え、えーっと……えーっと……」

 何故か、僕の部屋の前では、学校帰りらしき伊吹と、これまた何故かいる稲穂さんが、野良猫の縄張り争いのように睨み合っていた。……いや、睨んでいるのは伊吹のほうだけだけど。


「……何しに来ているんですか? 胡麻さん」

「えっ、えっと、き、昨日酔って石原くんに迷惑かけちゃったから、そのお詫びにちょっと……ね?」

「大丈夫です悠乃くんはそういうところは気にしないタイプなので、お引き取り頂いて結構かと」


「え、ええ……? で、でもさすがに、家まで送ってくれた上、布団に寝かせてまでくれたのに何もお礼しないっていうのは……」

「……お礼って。……まさか、その下品なくらい大きな胸で、悠乃くんにご奉仕する、とか言い出しませんよね。昨日の件で味を占めて」


「っっっっごっ、ご奉仕っって、なななな、何を言いだしているの? き、急に。わっ、わたしと石原くんはそういう関係じゃないよ?」

「知ってます、誤解なんてしてないので安心して頂いて大丈夫です」


 ……あのー、人の家の前でなんて会話をされているんですか? 普通に僕もいるんですけど。


「……ご、ごめん、お取込み中申し訳ないんだけど、ポスト見たいんでいいですか?」

 バチバチにやり合っているふたりの間に割って入るのも気が引けるけど、このままドアをそっと閉じたら閉じたで気づきそうなものだし、もういいや。


「はっ、悠乃くん、い、いたんですか?」「いっ、石原くんっ? ──ご奉仕……っっ」


 あの、稲穂さん、顔をほんのりと赤くさせてご自身の胸と僕をチラチラと目線で往復しないでもらえますか。……さすがにその想像をされるのは僕とてなんか恥ずかしい。


「……伊吹の言うように、別に昨日の件はそんなに気にしてないんで、そんなお礼とかお詫びとか考えなくていいですよ、稲穂さん」


 僕はそう稲穂さんに告げてから、共用廊下をスタスタと歩き、自分の部屋番号が書かれたポストから、突っ込まれていた郵便物を取り出し部屋の前に戻る。稲穂さんは、僕からもお礼を遠慮されたことで、多少なりとも居心地が悪くなってしまったようで、おどおどと小さな体を揺らしては、忙しなく手遊びをしだす。


「そっ、そうです胡麻さん。そ、それに、私と悠乃くんは結婚の約束をしているんです。邪魔しないでいただけると嬉しいんですが」

 と、今がチャンスとばかりに、伊吹は戻った僕の腕と自分の腕を組んでは、体をくっつけて結婚の話を稲穂さんにした。


「……え、え? け、結婚……? だ、だってふたりは幼馴染なんじゃ」

 すると、稲穂さんはあわあわと今度は僕と伊吹のことを交互に見やり、震えた声で返す。


「小さいときに、私たちは結婚の約束をしたんですっ、もうキスだって済ませたんです。胡麻さんが悠乃くんをどう思っているかは知りませんけど、邪魔しないでもらえませんか?」

 あー、もう全部話しよったよこの子。


「きっ、キス……? えっ、えっ……でっ、でも、松江さん、まだ高校生なんじゃ」

「高校生だって結婚できますっ」

「そっ、それはっ……そうだけど……ええ……?」

 ……稲穂さんもそういう反応になりますよねー。僕も内心そう思ってるもの。


「え、えっと……き、今日はもう帰るね。ご、ごめんね、石原くん。急に押しかけて」

 伊吹に押されたのか、稲穂さんはやや寂し気な足取りで、アパートを後にしていった。

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