第8話 ……初めてなので……責任、取ってくださいね。悠乃くん
止まない雨のなか、再び三十分の道のりを進んで駅まで戻り、すっかり終電の足音が大きくなった時間帯の、下りの閑散とした各駅停車に乗り込んで家に帰った。
……普段もお酒飲んで酔っ払うことはあったにせよ、寝落ちるまでっていうのは初めてだった。おかげで理性を保つのでいっぱいいっぱいだった。
「帰ったら録画しておいたアニメでも見るか……」
なんて考えつつ、共用玄関に集まっているポストを確認し、自分の部屋のあるほうへ向かおうとすると、
「おわっ……いっ、伊吹っ……? なっ、なんで外に……」
僕の部屋の前で、体育座りをしている幼馴染の姿が。心なしか、目もとが赤くなっているようにも思える。
伊吹は僕を視界に認めると、おもむろに立ち上がっては、よろよろとした歩調で近づいてきて、
「ちょっ……伊吹? どっ、どうしたんだよ、急に」
稲穂さんがやっていたのと同じように僕に身体を預けだした。
「……やっぱり、大きいほうが好きなんだ。悠乃くんは」
「はい?」
かと思えば、拗ねた口調と尖らせた唇で、僕に不満をぶつける。
「……胡麻さんのときは、あんなに鼻の下伸ばして。口先では否定してましたけど、やっぱり本当は喜んでいたんじゃないんですか?」
……稲穂さんに胸を押しつけられていた件か! 確かに、稲穂さんに比べると、伊吹はつつましやかと言うべきなんだろうけど……。
「いや、そんな、喜んでなんか──」
「……私のときはそんな素振り見せなかったのに、胡麻さんのときは……。幼馴染だからわかります、悠乃くんが喜んでるかどうかなんて」
うっ……。理性キープで限界だったのが伊吹にバレてる……。
「……東京まで来たのに、悠乃くんが目の前で誰かに取られちゃうのなんて……嫌です」
すると、伊吹は僕の背中にがっちりと両手を回して、一ミリの隙間も残さないと言わんばかりの力で抱きついてきては、赤くなった瞳を潤ませつつ上目遣いをして僕を思い切りゆさぶってくる。……どこでそんな技を覚えたんだ、この幼馴染。
「だっ、だから、何度も言っているけど、稲穂さんとは別にそういう関係じゃっ」
「稲穂さん、って名前で呼んでいるのにですか?」
「それは、稲穂さんが名字で呼ばれるの嫌って聞いたからっ……」
これは本当のことだ。胡麻さんって呼ぶと、めちゃくちゃ機嫌悪くなる。同級生の友達からは、胡麻ちゃんって言われているらしいけど、まあ、確かに語感がアザラシのそれで、気にする感覚は理解もできる。
「それで、名前で呼んでいると?」
「そう、だから、別に僕も稲穂さんも、どっちもただの飲み仲間くらいにしか思ってないからっ」
そうだよね? そうですよね? なんか勘違いしそうになったけどあれはオタク特有の勘違い案件だよねそうに違いないですよね稲穂さん?
「じゃあ、婚姻届に名前書いてくれますよね?」
「うぐっ……」
堂々巡りだ。何をやっても、きっと行きつくルートは婚姻届。……こんなことになるんだったら、子供の約束だからって、気軽に結婚の約束なんてするんじゃなかった……。
「……それとも……悠乃くん、ほんとは私のこと、嫌いなんですか? だから東京の大学に進学したんですか?」
まずいまずい、なんか決壊しそう、伊吹の目からなんか溢れそう。むりむりむり、女の子に泣かれてなんとも思わないほど僕はメンタル強くないって。
「ちっ、違うっ、東京に行ったのは単に実家出たかっただけだし、伊吹のこと嫌いだなんんて思ってないから、本当だからっ。伊吹のことは大事に思ってるからっ」
「……ほんとに?」
だああ、もう、そんな唇震わせるくらいの大きさで囁かないで。
「……私のこと、もうひとりにしない?」
それに、普段敬語なのにこういうときだけ幼い口調になるの反則、反則だよそれ。
「し、しないっ、しないよ、しないから」
「なら──」
僕が伊吹の行動にやられていると、一瞬、胸元にくっついていたはずの伊吹の顔が離れたかと思うと、
「んんっ?」
声をあげる間もなく、僕の口が伊吹の滑らかな唇に塞がれてしまう。何秒か経ってから、
「……こ、これくらい、しても大丈夫ですよね? だって、け、結婚するんですから」
今さっき、触れあっていたはずの彼女の薄桃色の唇と、それ以上に赤く染まった頬がはっきりと目に入る。
「えっ、いっ、伊吹っ? い、今何をっ……」
「……初めてなので……責任、取ってくださいね。悠乃くん」
せっ、責任って言ったって……そ、そんな、ど、どうしたら……。
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