第173話 馬と鹿は再び昇る2

 *


 音も時間も、自分すらも置き去りにする感覚。

 異常なほどに研ぎ澄まされる感覚はあっという間に俺の頭の処理能力を超える。


 思考より早く動く体は不思議な事に驚くほどに優しかった。

 なんせ内臓が潰れない。


 どうなってんだ?

 そんな疑問すら形を保っていられない。


 心を占めるのは、ただただコイツをエリカの前に立たせられない、という意思だけだ。

 嫌になるほどダリルと同意見だ、相手は違うが。


 コイツをエリカの前に立たせてはいけない。

 惚れた女の前にコイツを立たせるぐらいなら、一生下水道で殴り合う方を選ぶ。


 過去の俺は未来の俺から鉄のような意思を受け取りながら、未来の俺を背後から眺める。

 前と違うのはその距離の近さだ。


 ほんの少し前に“今の俺”がいる。

 男のどてっ腹に剣を突き刺し、相手からの反撃も考慮に入れない程の全力で突進する俺が目の前にいる。


 示唆に富んだ現象ではあるのだが、こんなデタラメ空間に条理なぞ期待するだけ無駄だ。

 こういう物なのだと納得するだけにする。


 だが、それでも周囲に強欲な俺も皮肉屋の俺もいない事を寂しく感じてしまう。

 理由は分かっている。


 俺がエリカに惚れられたいと、素直に思うようになったからだ。

 理屈なぞ分からんが、そういう事なのだ。


 ふと、それでは俺は何なのか?と疑問が浮かぶ。

 冷静な俺だろうか?


 まぁそうなのだろう。

 俺は自分という人間に呆れそうになる。


 人間とは冷静さと情熱の間に平常を得ると言う。

 冷静な俺をこんな所に置き去りにした俺は一体何と何の間に平常を得ているのか?


 いや良い、言わなくて良いぞ“未来の俺”。

 いや、だから言わなくて良いって!


「狂気と熱狂エリカの間に決まってんだろうが!」


 そんな所に平常を得るな、俺。

 視界が急に開けた。


 *


 妙なことを口走った、ような気がした瞬間に四方が急に開けた。

 突き刺した剣を引き抜く代わりに男の腹を蹴り飛ばす。


 男が、俺には黒い塊にしか見えない男が吹っ飛び水面を跳ねる。

 何だココは? と浮かんだ疑問は自分の記憶から答えが出た。


 ファルタールの下水道にもある施設だ。

 昔は魔道具で浄化した水に残った魔力は人体に悪影響を与える、という考えがあったのだ。


 このドーム状の空間はその水に含まれた魔力を抜くための空間だ。

 円形の巨大な人工の溜め池、深さは足首程度までしかないが、特色は池の全面を覆うように生い茂る白い花だ。


 名前は忘れたが、魔力に反応して赤く変色するという特徴がある。

 今も俺の足下にある花は赤く変色している。


 本来なら溜め池の中央に水に含まれた魔力を抜く為の魔道具があったはずだが、それは撤去されているみたいだ。

 今はそこに首の骨が折れた頭を片手で支えて立ち上がる黒い男がいる。


「酷い、せっかく会えたというのに酷い扱い」


 甘い少女の声。

 正直に言えば隙だらけに見える。


 だが相変わらず本能がヤバいと警鐘を鳴らしまくる。


「それにしても本当にロングダガーはロングダガー。ソルンツァリを釣り上げるつもりだったのに要らない大魚が掛かった感じ」


 バキバキと音を立てながら男の首が治っていく。


「殺したかったのになぁ」


 言葉すら出なかった。

 反射で斬りかかった俺の剣は相手の剣に防がれた。


 足下に広がる白い花が、魔力に反応して水に広がる波紋のように赤色が走る。

 互いの剣を間に睨み合う。


 いや睨んでいるのは俺だけだ、男の目は俺を見ているが何の感情も浮かんでいない。


「怖いなぁ」


 だが声は奇妙な程に感情豊かだ。

 奇妙なのはそれだけではない。


 俺は咄嗟に全力が出た、出してしまった。

 相手からの反撃も何もかも考慮せずに真正面から殺しに行ってしまった。


 にも関わらず俺の剣を防いだ男の剣は、構えどころか握りすら怪しいものだった。

 今も全力で押し込もうとしているが、男の剣はビクリともしない。


 俺より膂力りょりょくのある相手なんてのは、正直に言えば珍しくない。

 身近な人間で言えば師匠だ。


 だが師匠に斬りかかって防がれた時に感じるのは巨大な山だ。

 今感じるのは何だ?


 まるで動かない布に斬りかかっているような感じがする。


「お前……何者だ」


 敵の正体が余りにも不明すぎて、つい真正面から問うてしまう。


「君達全ての幸福の源だよ」


 答えが返ってくるとは思っていなかったので驚く。

 おかげでふざけているとしか思えない、素人同然の蹴りをまともに受けてしまう。


 脇腹に走る衝撃はその蹴り方からは明らかに不釣り合いな物だった。

 へそを中心に体がくの字に曲がったまま水面を跳ねる。


 折れた肋骨に内臓を引っ掻かれながら身を捻り体勢を整える、これ超痛いのでオススメしない。

 追撃を想定して、どう襲いかかられても対応できるようにと爪先に乗せる体重を調整する。


 だが無駄だった。

 男はドームの中心から動かなかった。


 追撃するまでもないという事なのか?

 ヤバい相手なのは分かる、だがその実力が分からない。


 というより存在自体が何なのか分からない。

 魔族でないのは確かだろう。


 だがそれと同時に人間だとも思えない。

 何が君達全ての幸福の源だ、俺の幸福はエリカが全てだよ。


「不愉快な奴にずっと邪魔され続けて、イライラしてたんだけど。こうやってロングダガーおにいちゃんに会えたのだから少しは感謝すべきなのかな?まぁ邪魔しているのはお互い様だけど」


 誰がおにいちゃんだ。

 俺の可愛い弟に謝れ。


 そう思いつつも俺は目の前の光景に歯がみする。 男は先程の蹴りで足の骨が折れていたのだろう。

 曲がっちゃいけない方向に曲がっていた足が俺の方に向く。

 それだけなら良い、俺は驚かない。


 問題は俺が水面を跳ね転がり、斬りかかるのに踏み潰した花までもが回復している事だ。

 現象だけを言えば、それは魔法を使うのが下手だという事だ。


 だがその下手くそな魔法の使い方で、効果まで出ているのなら話は別だ。

 しかもその効果範囲が、俺が全力を出してもセルフ耐久試験にならない程の広場全域なのだ。

 それを為し得るだけの膨大な魔力に戦慄する。


 やっぱりコイツはエリカの前に立たせてはいけない。

 だがその前に一つ確かめなければならない事がある。


「おい」


「なぁにぃ?」


 相変わらず顔は無表情だが、声は表情豊かだ。

 今のは幼い子供の声に応える大人の喋り方だ。


 随分と舐められている。


「お前がそうなのか?」


 問いつつも内心では確信している。


「お前がエリカをあんな目にあわせた黒幕か?」


 まともに考えれば、黒幕が直接出張ってくる、なんて事があるはずがない。

 そう思うが、コイツを前にするとそんな常識はどうでも良くなる。


 返ってきたのは沈黙だった。

 だったら良い、とりま死ね、というだけだ。


 俺が剣を握る手に力を込めるとそいつは、あーと短く声を漏らした。


「どんな目の事を言っているのか分からないけどもぉ。たぶん違うかなぁ」


「殺すと言っておいて良く言う」


「そうだね、ソルンツァリは殺すよぉ。でもやってもいない事で誤解されるのは嫌かなぁ」


 男の顔をどれだけ見つめても、何も分からない。

 本当の事を言っている気もするし、全くのデタラメを言っているような気もする。


 慎重に立ち上がりながら俺は考える。

 よし、考えるのをやめよう。


 敵を前にして情報を得ようとゴチャゴチャ考えた俺がらしくなかった。

 そういう貴族の流儀は捨てて久しいのだ、もしかしたら産まれた時からナチュラルボーン持ってなかったかもしれない。


 王子を逃がす、等というらしくない事をしたせいで、もしかしたら自分の中にもそういう、敵を目の前に口を働かせる貴族らしさがあるのだと勘違いしたのだろう。

 剣の切っ先を男に向ける。


 剣からうっすら立ち上る蒼い炎が細かい火弁かべんとなって水面に消える。


「すまん、ベラベラと口を回しすぎた」


 俺の謝罪に男が首を傾げる。


「とりあえずお前は……ん?あれ?どっちだ?男か?女か?」


「とびきりの美少女でいいよぉ」


 咳を一つして仕切り直す。


「とりあえずお前はここで死ねクソ女!」


 相手の意向に沿って女とした。


「わあ、とってもロングダガー」


 首を狙った一撃を避けながら女はそう言った。

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