第172話 馬と鹿は再び昇る1

 *


 俺と王子は互いに魔力の回復に努めながら、そして出来るだけ早足で下水道を進んだ。

 深く静かな呼吸を維持しながら体を動かすというのは、学園で嫌というほど教えられる。


 馬鹿みたいな話だが、貴族の子弟が呼吸を乱さぬように気を付けながらひたすらに行進を続けるだけの授業があった。

 学園が元々は軍事を主とした教育機関であった事を強く意識させる授業だ、酷い悪臭の中でもさせられたので実戦的だった。


 その授業をどれほど真面目に受けるかどうかで、将来は武官か文官どちらになるのか分かるそうだ。

 俺は真面目以前にやる気が無かったので冒険者になったが。


「やっとで地上か」


 そう言ったのはダリル王子だった。

 声には安堵よりも地上に残してきた者を案じる響きが強い。


 俺も同じ気持ちだ。

 そうなると俺の辺境伯への感謝と尊敬の気持ちはいや増すばかりだ。


 ここまで迷わずに来れたのは、要所要所に設置された看板のおかげだ。

 歴代の辺境伯、そして施設を維持する現辺境伯には感謝の念しか湧かない。


 用意周到さが怖いとか思って悪かった。

 ここまで来れば尊敬の念しか湧かない。


 八番出口までの短い距離が書かれた看板を俺達は通り過ぎた。

 障害物の無い見通しの良い長い直線通路だったが、俺もダリルにも油断は無かった。


 俺は気配察知スキルを精度ガン無視でとにかく遠くまで伸ばしていたし。

 ダリルはダリルで真剣な目で前方を警戒していた。


 だから見落とすはずなど無かったのだ。

 俺は二十足程先に居た影に間抜けにも呆然とした。


 影?人? 人か?魔族じゃ無い。

 頭に浮かんだその言葉が思考に繋がる前に。


 俺の体は横を歩く王子を突き飛ばした。

 瞬間、突き出した左腕に何かが通った感覚がする。


 意味が分からない。

 確かに何も居なかった。


 姿を消す魔法もスキルも万能ではない。

 師匠ですら完璧には無理なのだ。


 感覚としては見落としていた、としか言えない程の奇妙な感覚に混乱しそうになる。

 だが混乱なぞしていれば死ぬという確信が無理矢理心を平坦にする。


 突き飛ばされた王子が文句も言わずに素早く立ち上がり。

 俺は“ずり落ちる”左腕を右手で支えながら戦慄する。


 抜かれた。

 一撃で抜かれたぞ!


 もはや本能レベルで刷り込まれた貧乏性により、咄嗟に動く時はともすれば体より先に身体強化の強度が上がる。

 身体強化を通した俺の服が一撃で抜かれた。


「嘘だろおい、攻撃力は師匠並みかよ」


 思わず漏らした言葉にダリルが息を飲む。

 ファルタールの人間で“親切なバルバラ”並という言葉の意味を間違える奴はいない。


 余りにも綺麗に切断された肘から先を回復魔法でくっつける。

 用をなさなくなった袖を腕の調子を確かめるついでに振り落とす。


 すぐにくるだろう追撃に備えて剣を抜く。

 ここまで三呼吸、その間に追撃が来なかった事で師匠ほどには苛烈じゃ無い事が分かる。

 もしくは、いつでも追撃できると油断できる程の強者であるか。


 それにしても――。

 俺は愚者の森で一緒に戦った冒険者のディグリスを思い出す。


 ディグリスがズボンを駄目にして嫁さんにビビり散らかしていた理由が良く分かる。

 嫁に買って貰った服を駄目にすると罪悪感が半端ない。


 混乱を前に無理矢理の冷静さを強いた頭が怒りで沸騰しそうになる、影のように立つ人影を睨む。

 俺を冷静にさせたのは王子の言葉だった。


「シン、ここか?」


 声音の真剣さに、何がだ?と問い直す無粋は出来なかった。


「惚れた女の為に人知れず、なんてのは趣味じゃないんだろ?」


 問い直す無粋の代わりに皮肉が口を突いて出る、なかなかの切り替えの速さだな王子。

 だが実に良い、惚れた女の為に命をぶん投げる覚悟を決めるにブレーキ踏むような奴は馬に蹴られて死ぬべきだ。


「喜んで撤回しようぞ。アレをまかり間違えても惚れた女の前に通そうなぞ俺が許せん」


 同感だよ王子。

 動く空気に追撃を警戒する。


 二十足先の影が――否、影と見紛うほどに黒い魔力に覆われたそれは言った。


「ロングダガーは、わ、わ、あ、あ、あ、相変わらず妙な所ででで」


 その声にダリルが息を飲む。


「そのなりで少女の声とは面妖な」


 長身の男、全身が黒づくめなのは服がそうなのか魔力のせいなのか俺には分からない。

 それ程に色濃く濃密な魔力だった。


 そんな奴が少女の声で話すのだ。

 奇妙と言うより気持ち悪さが先立つ。


「ご、ご、ごごゴメンね。この体だにぃーにぃーなれなくて」


 ダリルが無言で自分の膝を殴る。

 気持ちは分かる、俺も顎の力を緩めたらガタガタ鳴りそうだ。


 奇妙な喋り方のせいなのか、それともだらりと垂れるに任せた素人くさい剣の構え方のせいなのか?

 

 奇妙さと不気味さと、圧倒的に感じる“コイツやべぇ”とは裏腹に、危機感が感じられない。


 変な例えになるが、刃の潰した剣を持ってる師匠を見ている気分だ。

 いや駄目だ普段より酷い目にあうイメージになっちゃう。


 言い直そう、凄まじい名剣めいけんを持っている素人みたいに感じてしまう。

 その存在感からは信じられないチグハグさだ。


「ああ、クソ」


 喉の調子を確かめるように、喉をさすりながら「あーあーらーらー」と少女の声で喉を鳴らす男を視界に収めながら俺はぼやく。

 思い出した、約束しちまった。


 相手の奇妙な印象に、混乱から立ち直る頭が王子との約束を思い出す。

 吐いた唾を飲んで約束を無かった事にするにはちょっと早すぎる。


 せめて飲むなら地面に落ちてからだ。

 空中にある間に飲むなら、汚ぇ酔っ払いの芸だ。


 深呼吸一つ。

 身体強化の魔法陣は二つ。


 呼気こきに混じる魔力がチロチロと蒼い炎を灯す。


「王子」


 自分で笑いそうになる。

 なんとも似合わない声音だ。


「約束を果たします」


「ふざけるなよシン・ロングダガー」


 良いね、ダリル。

 なんとも王家に似合わない声じゃないか。


「友と呼ぶなら約束ぐらいは果たさせろよ、ダリル」


 すぐさま何の約束かを理解した事に少しだけ、少しだけだぞ?

 俺はダリル王子に好感を覚える。


 ダリルが唸る。

 もう一押しだな。


「助けを呼んできてくれって頼んでんだよ。あんまり友達に恥をかかせるなよ恥ずかしい」


 ダリルがあろうことか俯き前髪をくしゃりと握りつぶす。

 お前、よくアレから目を離せるな。


 だが、この状況で悩んで時間を浪費する愚を犯さない事に感心する。

 ダリルが悩んだのは一瞬だった。


「俺は本当に助けを呼んで戻ってくるからな?」


 ダリルが飲み込んだ物が何なのか?

 ただの貧乏子爵家の次男坊である俺には分からない。


 だが素直に同情する。

 大変だなぁ王子様は。


 好き勝手に惚れた女の為に命をぶん投げられないなんて、なんともまぁ窮屈な生き方だ。


「それでは道を切り開きます、おう――」


「次ぎに王子と呼べば俺も一緒に突っ込むからな?」


 つい苦笑が漏れる。

 口の端から炎が昇る。


「じゃあ気張って走れよダリル」


 ダリルは確かに俺の言葉に返事をしたのだろう。

 だがそれが空気を震わす前には俺は動きだしていた。


 全力の身体強化、その全力で。

 え?セルフ耐久試験?


 流石に真っ直ぐは大丈夫だ。

 それに――。


「お前がクッションになるんだよ!」


 俺は黒い魔力の塊に剣を突き立てた。


「アッハッハ!やっぱりロングダガーはいつでもロングダガーおにいちゃん!」


 腹を剣で刺し抜かれた事なぞ気にしない。

 影は少女の声で笑い。


 俺は、俺にいるのは可愛い弟だけだ、と。

 突き刺した剣を捻り、ただひたすらに突進した。

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