第170話 混沌は深く静かに潜航する3
*
辺境伯コムサスの部下達は、実に厚い忠誠心の持ち主達であった。
まるで何事も無かったかのように平然とした態度を崩さなかった。
つまり我が主は悲鳴など上げなかったし、胃を抑えて
真実はそれだけである。
コムサスは屋根から飛び降りてきたエリカ一行を見て無表情を保つのに全力が必要だった。
エリカ・ロングダガーに光の巫女ルー・メンフィース。
更には“親切なバルバラ”に“串刺しエルザ”だ。
この集まりに秩序を求めるなぞ、求めた時点で正気を疑われるだろう。
唯一まっとうな人間に思えるのは、ヘカタイの教会のシスターであるシャラ・ランスラだけだろう。
いや、このシスターはシスターで“あの”報告書を書いてくるような人間だ、油断ならんな。
コムサスはビバル司教に何事かを話しかけているシャラを見て思った。
「辺境伯様」
エリカからの呼びかけにコムサスは視線をエリカに向けた。
コムサスは内心で唸りそうになった。
なんだこれは、まるで死地に向かう騎士の顔ではないか?
コムサスは何度か見た、自分がそうさせた事がある騎士の顔を思い出した。
確か年齢は十六歳のはず、コムサスはエリカの年齢を思い出す。
少女がするには余りにも剣呑に過ぎる顔だ。
自然、コムサスの背筋は伸びた。
これまでがそうであったように、これからもその顔をする者を前にした時にそうするように。
「わたくし夫を迎えに行かなければなりませんの」
勝手に迎えに行けよ。
コムサスは思った。
「ですので申し訳ないのですが、お一人貸して頂けないでしょうか?」
コイツ会話下手か?
いや待て、確かに旦那の方はどこだ?
コムサスは間違っても居て欲しいとは思えないが、このメンツで逆に居ないのが不安になるシンが居ない事に気が付いた。
「あーコム」
人前で愛称で呼ぶ司教を軽く睨む。
コムサスに睨まれたビバルは気にする様子も無く耳打ちしてくる。
どいつもこいつも、辺境伯という権威に大してフランク過ぎないか?
やはり自分という人間には辺境伯等という大任は務まらないのでは? 若い頃に思い悩んだ疑問がふと頭をよぎる。
が、よぎった疑問はビバルから耳打ちされる内容にすっ飛ばされた。
コムサスは怖くなった。
コイツらは混沌か何かに愛されてるのか?
何だよ、嫁が逃げ出して旦那が名前を叫びながら街中を走り出したと思ったら、嫁が唐突に親友を口説きだしたかと思ったら街中に魔族が湧いて出てきてシンさんが空からビターン!ってなって地面に出来た穴に落ちましたって。
唐突に出てきたビターン!が一番怖い。
あとビバルが何も考えずに、言葉そのままに伝えてきたのが怖い。
伝わると思うの?伝わったけども。
ていうかビターン!って何だビターン!って。
というか嫁の方は旦那を迎えに行くと言っていたが、地面に出来た穴に落ちたら普通は死ぬんじゃ?
いや、あの手の馬鹿はその程度は死なん。
なんかナイスミドルで優しげで思慮深げな顔してるが、この司教はあの手の馬鹿だった。
こいつが生きてるなら、あのロングダガーも生きてるだろう。
いやしかし、俺はいったい真面目な顔をして何と言うアホな事を考えているのか。
まずはエリカ嬢に何をするつもりで、誰を一人貸せと言っているのかと尋ねなければ、コムサスがそう考えをまとめた所だった。
「閣下! 冒険者ギルドが避難民を連れてこちらに助けを求めてきております!」
部下からの報告にコムサスは叫びそうになった。
順番を守れ!順番を!
「数の確認をさせろ! 怪我人の数はこぼすなよ!」
何故か命令を飛ばす自分の姿を見て、満足げに頷いているビバルにコムサスは言う。
「ビバル、怪我人の治療に手を貸してくれ」
ビバルはそれに簡潔に勿論ですとだけ応えると、残していた施術派の人間を集め始めた。
いやぁコムはやっぱりコムだなぁ、そう嬉しげに漏らしている背中が妙に腹が立つ。
「お手伝い致しましょうか?」
「いや結構!」
放置してしまっていたエリカからの言葉をコムサスは即断で断った。
マニュアルが無くとも判断に迷う余地はなかった。
*
避難民の対応があるので。
そう言われてしまえば、エリカとしては大人しく待つしかなかった。
心は焦れるが、それを我慢する程度の道理は心得ていた。
何より、シンならばまずは避難民を優先しただろう。
というよりも率先して手伝っただろう。
自分は断られてしまったが。
困難の多寡に頓着しない彼なら、自分の命が掛かっていても避難民に手を貸しそうな気がする。
忙しいだの、面倒だの、急いでいるのにと散々と愚痴を言いながら、それでいて見ていて安心できるような笑みを浮かべて。
いや愚痴は言わないか。
そういう物は彼には似合わない。
きっと、そうですね。
心中で愚痴を垂れ流しながら馬鹿なことを言うのでしょうね。
エリカは焦れる心を妄想のシンで補填した。
なので妄想を邪魔された時はちょっと不機嫌になった、顔には出さなかったが。
「お久しぶりですね、エリカ様」
その身分からすると質素としか言えぬ服。
だがその首から垂れるネックレスは男が教会の最高権力者である事を示している。
「これは猊下、お久しぶりでございます」
エリカはそっと失礼にならぬ程度の簡素さで頭を下げる。
相手が自分を死刑にしようとした相手だから、ではなく単純に忙しなく動く周囲を気遣ってだ。
「前回会ったのは去年の夏でしたかね?」
「はい、教会の孤児院を見学させて頂いた
挨拶を返しながらエリカは内心で首を傾げていた。
そんな事実は無いが、教会からすれば自分は光の巫女を暗殺しようとした神敵である。
それにしては随分と気安い態度だ。
エリカとしては教会はすべき事をしただけ、という認識であったので恨んでも憎んでもいない。
だが相手の立場からしたらそういう態度自体が不愉快なのかもしれない。
ここは恐れるとかそういう態度をとるべきなのでしょうか?
一瞬そんな考えが浮かぶが、直ぐに捨て去る。
そういう器用な事が出来るならルー以外にも親友と呼べるような友人が出来たはずだ。
シン程では無いが自分も十分にボッチな学園生活だったのだ。
自分の周りに人がいた理由は概ねルーのおかげだったのだから。
よしルーを大事にしよう、我が親友大事。
「ああ、いえ、大丈夫ですよエリカ嬢」
エリカは法王カル・ウラシミッツの言葉に今度こそ首を傾げてしまった。
何が大丈夫なのか?
「貴方が泰然としているのを不愉快だと思うような人間ではない、という事ですよ」
そんな素直に表情に出したつもりはなかったエリカは一瞬だけ
貴族としての自分は既に遠いと思うエリカだが、さりとてその癖が抜けているとは思えなかった。
法王カルが笑みを浮かべる。
「なに、私が貴方よりも少々政治的に生きているだけですよ。顔に出ないなら出ないで、引き出す方法なぞいくらでもあるという事です」
成る程、先程の言葉はカマをかけられたのか。
見た目は精悍な青年のようだが、中身は宮廷にいる連中と同類か。
「猊下、正直に言いますと」
奇妙な懐かしさを感じながらエリカが言う。
「存外と俗っぽい物であるのですね」
「秘密にしておいてくださいね?」
カルの浮かべる実に政治的な笑みに懐かしさを感じる。
かつてはそれこそが日常であったはずなのに。
それを懐かしく感じられる自分がエリカは嬉しい。
そしてついでのようにシンに会いたくなる。
懐かしく感じる、これは彼のおかげで感じる感情だ。
会いたくなったらシンが側に居ない事を思い出して気分が沈んだ。
なぜシンは自分の側に居ないのか?
何が悪い。
魔族だ、よし滅べ魔族、滅ぶべし魔族。
「どうかされましたか?」
カルは急変するエリカの雰囲気に若干ビビった。
虎だと思ったら竜だった、自分は間違った尾でも踏んだのかもしれない、カルは下腹に力を入れた。
カルの
「ああ、いえ。すいません、急に夫に会いたくなったものでして」
そんな甘い理由であんな顔が出来るものなのか? カルは内心で首を傾げた。
込めた下腹の力が行き場を無くす。
「そう言えばご結婚されたそうですね。おめでとう御座います」
カルは力が抜けたついでに話を変えた。
「猊下からお祝い頂けるとは、恐悦で御座います」
「お相手はロングダガーのご子息であるとか? ソルンツァリのご令嬢にしては随分と政治的な軽挙でありますね」
これは挑発だろうか? エリカは内心で首を傾げる。
エリカからすると父の友人にロングダガーという名の者がいた、というのが知識の全てだった。
貴族の一員として、ソルンツァリ家の長女として育てられたエリカだが、ロングダガーの立ち位置までは教育されていなかった。
つまりエリカにとってロングダガーとはシンその物に過ぎない。
まぁ良い。
エリカは冒険者としての笑みを浮かべた。
「良き短剣でありましょう? 己の懐にあってあれ程に
つまりは夫を自慢した。
ついでに茶番劇を知っているだろう法王に、アレは私のだ宣言。
嗚呼、ええ。
これは大変に宜しい、わたくしの物宣言、これはなんというかグっと来る。
「そうでありましょう。王家とソルンツァリ家にとってはロングダガーはいつであってもそうでありました。私もそれを遂に自分の目で見れると思っていたのですがね」
エリカはカルの言葉に首を傾げ、カルはそれを無視してあたりを見回すような仕草をする。
「少しばかり予想が外れまして、残念な事です」
何の予想が外れたのか?
エリカの疑問がハッキリとした形を成す前に、横からかけられた言葉に疑問が流れてしまう。
「エリカ様」
振り返った先に冒険者ギルドの職員、ラナがいた。
「知ってはいましたが、ご無事なようで」
「お互いにそのようですね」
エリカの返事にラナが、いやぁ腕がパンパンで喉がガラガラですよと苦笑を返す。
なるほど、それなりに苦労したようだ。
気が付けば法王の気配が無い、自分と話している所を人にあまり見られたくない?
まぁいい、確かに法王様に用はあるが、特に話したい相手ではない。
ルーの身分保証に連れて行く気だが、流石に辺境伯に黙って連れて行くわけにはいかない。
つまり今は特に法王様に用はないのだ。
それにしても、とエリカはラナの背後を見渡す。
「随分と拾い上げたようですね?」
ラナ達が連れてきた避難民を見て言う。
「こう見えても冒険者ギルド職員なので」
ラナの自慢げな声。
今度はラナがエリカの背後を見渡す。
「所でシン様はどこでしょうか? いえ、会いたいとかではなく見えないと逆に不安と言いますか」
言った瞬間にラナは後悔した。
えーなんで旦那の居場所を訊いただけで、そんな借金返済の為にゴールデンオーガを狩りに行く前の冒険者みたいな顔ができるんですか?
浮かんだ疑問を口にする程の愚かさは持ち合わせていなかったが、適当な理由を付けてすぐさま立ち去るだけの賢さも持ち合わせていなかった。
「おーギルド職員ちゃん」
「げぇ!親切!」
ラナは白目を剥きかけた。
“親切なバルバラ”が護衛対象のルーを引き連れてこちらに近づいてくる。
バルバラは広場で治療を受ける冒険者や住民を見て感心する。
「いいね、凄く良い。拾いに拾いまくったね」
ラナは下唇を噛んで耐えた。
理不尽に褒められて嬉しくなるなぞ、破滅への第一歩だ。
なので慌てて事実だけを告げる。
「冒険者ギルドですので」
「移住したくなるね」
おそらくバルバラの護衛対象であろう少女が「それは有りかもしれない」等と真剣な顔で不吉な事を呟いている。
やめてくれ、ラナは真剣に願った。
「エリカぁ」
ラナがどうにかしてバルバラに、ヘカタイが如何に面白くない街か知ってもらうには?と頭を悩ませていると、ロングダガー一味のシスターの声が近づいてきた。
随分と情けない声だ。
「お前は怪我人に近づくなと言われてしまいましたー」
およよ、と情けない顔をしてエリカに縋り付くシャラを見て、ラナはやはりロングダガー一味にまともな奴はいないと考えを新たにする。
抱きついた相手の顔は未だに、何を
「私も追い返されてしまいました」
そして司教様まで情けない顔をしないでください。
シャラに続いてションボリした顔で現れるビバル司教にラナは何とも言えない顔をする。
おかしい、自分はつい先程まで助かったと、一人もこぼさずに来れたのだと、誇らしさと安堵で胸いっぱいだったのではないのか?
秒か? 秒で私の安堵は混沌か?
「司教様も回復魔法が下手ですからねぇ」
シャラの口から聞きたくない真実が聞こえてきたが無視した。
我が街の司教様は慈悲深く思慮に深い人なのだ、そんな事実なぞ無い。
「シャラ、向き不向きなぞ熱意で跳ね返してやれば良いのです」
表情を戻したエリカがそう言うのに、ラナは似たもの夫婦ですね、と言いかけるのを唇を噛んで耐える。
どう考えてもこれは地雷だ。
ちくしょう、“身分不相応のロングダガー”め。
いたらいたで迷惑なくせに、いないならいないで迷惑とは迷惑極まる。
エリカの言葉を受けてシャラの表情が明るくなる。
「なるほど! 確かに!」
確かに! じゃねーよ。
ラナは回復魔法の痛みにのたうち回る誰かを思って心中でツッコんだ。
「では再び行ってきま、ま、ま、まままま」
ラナはギョッとした。
シャラが笑顔のままで突然壊れた。
「声来た!噴水! 下! 何か来ます! 離れて!」
「シャラ……やはりまたカウンセリングを受けましょうか」
司教様が心配そうに呟いた。
ラナもその方が良いと思った、やはり常人がロングダガーと一緒にいるのは体に良くないのだ。
だがそれ以外の人間の反応はまったく違った。
全員が、エリカも、護衛対象の少女も、“串刺しエルザ”も、“親切なバルバラ”でさえ。
全員が戦闘態勢を取っていた。
「下から何か来ます! 噴水から離れなさい!」
エリカがそう叫び、それを聞いたラナは躊躇しなかった。
***あとがき***
上手く分割できなかった……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます