第157話 短剣は短く、光は刺す、そして炎は走る8

 *


 シンが自分の名前を呼んだ瞬間。

 あれ程に側に戻りたいと思っていたにも関わらず、エリカは走る速度を上げた。


 無理だ。

 無理すぎる。


 シンが自分の名前を呼んだだけで、ちょっと淑女的に駄目な顔になっている。

 こんな顔を晒せと? いや晒しても良いがその後に自分が何を口走るか分からない。


 いや、そもそも。


「恥ずかしい」


 エリカは走りながら両手で顔を覆った。

 手の平が熱を感じる。


 とにかく恥ずかしいのだ。

 何が恥ずかしいのかも分からないくらいに恥ずかしいのだ、そして心が浮き立つのだ。


 エリカはしばし気配察知スキルだけで人混みを走り抜けた。

 シンが再び自分の名前を呼ぶ。


 ほあぁッ、何かこう良くない感じでムズムズします。

 思わず軽くなる足取りに速度が上がる。


 速度を上げた自分に、シンが再び自分の名前を叫ぶ。

 その声に滲む焦りの感情に胸が高鳴る。


 これは、これはどうしましょう?

 エリカは更に速度を上げながら目に付いた角を曲がる。


 自分のままならない感情に、合理のない行動。

 更にはシンが自分を追いかけてくる。


 混乱の極地に達したエリカは、何故か楽しくなってきてしまった。


 *


 えー、何コレ?

 光の巫女ルー・メンフィースは素直にそう思った。

 つい先程は、混乱のあまり思わず親友の旦那を殴ってしまったが。

 今はそれ以上に混乱している。


 何故か親友の旦那、シン・ロングダガーが親友の名前をとんでもない大声で叫びながら街中を走り回っている。

 屋根の上を街中と呼んで良いのなら、だけども。


 意味が分からない。

 エリカのあの顔、あの声にも動揺し混乱したが、今はそれ以上に混乱させられている。


 何故に名前を叫んでいるのか?

 せめて呼び止めたいのなら、待ってくれとか他に言うべき事があるのではないのか?


 シンも意味が分からないが、エリカもちょっと意味が分からない。

 つい先程、ぐるっと回ってきたエリカが目の前を通り過ぎたのだが、顔を赤くして口をモニョモニョさせながら爆走していた。


 親友が、あのエリカ・ソルンツァリが迷子の子供のような声を出した事も信じられないが。

 あのエリカ・ソルンツァリがあんな顔をするのも信じられない。


 いやそもそも、どこもかしこも人で溢れる街中で身体強化を使って走り回る事自体が信じられないのだけど。

 なぜ人死にが出ていないのか分からない。


 この状況に混乱しているのは自分だけではない事から、これがあの二人の日常ではない、日常ではないよね? 事だけが救いだ。

 なんだその救いは?


 ほんの少し前まで――、エリカが目の前を通り過ぎるまで、「街が燃える、このままでは街が燃える」と意味が分からない事を呟く程に混乱していた新たな友人。

 教会のシスター、シャラ・ランスラが頭を抱えながら「強制的に砂糖が、耳に砂糖が」と、隣で呻いているので彼女にとって救いではないのは明白だ。


「ルーちゃん、止めてください、あの二人を、二人が無理ならエリカだけでも」


 シャーちゃんは面白い事を言うね。

 ルーは縋り付くシャラの顔を見て思う。


「犬が食べないような物は、私も食べられないかなー」


 シャラがキョトンとした顔を浮かべる。

 数瞬の間が空き頭を抱えて叫ぶ。


「痴話喧嘩かよ!?」


 伝わったようで何より。


「むしろ痴話喧嘩以外の何だと思ったの?」


「てっきりシンさんがエリカが逃げ出すレベルの甘い愛の言葉でもささやきだしたのかと」


 シン君そんなキャラだったの?

 意外だ。


 やはり悪い男なのでは?

 ルーはシンに初めて挨拶された瞬間に、直感的に否定した自分の疑念を思い出す。


 いや、悪い男なのだろう。

 どう考えてもエリカをたぶらかしすぎだ。


 まさかシン君がちょっと私と話したからと言ってエリカがいきなりあんな風になるとは思わなかった。

 己の手から零れる物に対しては諦めの早いエリカが、まさかあれ程の執着心を見せるとは思わなかった。


 流石にあれ程までにあからさまにされたら、知り合って短かろうが分かる。

 二人の気持ちも、シン君がエリカに心底一途なのも分かる。


 だがアレは特大の“たらし”だ。

 それも特定の人物には刺さりに刺さりまくるタイプの。


 本人に自覚が無さそうなあたり、相当にたちが悪い。

 彼はきっと、人が何十年もかけて積み上げてきた物の隣に何の気負いも無く座ってくるタイプだ。


 そしてまるで邪気の無い顔で賞賛するのだろう、もしかしたら尊敬すらしてくれるかもしれない。

 積み上げた物が何であろうと気にしないだろう。


 ただその過程を賞賛するのだ。

 これで彼が凡人か、そこそこの天才だったら問題なかっただろうが。


「エリカァア!」


 彼は異常その物だ。


 もしかしたら街の外まで届いているかもしれない、そう疑わせる程の大声。

 その時点で尋常な身体強化の強度ではない。


 魔法を体系的に学びだして日が浅い自分でも分かる。

 アレは異常だと。


 あの大声を出すだけなら自分も出来るだろう、自分だけではなく多くの者も出来るだろう。

 だがあの大声を出せるほどの身体強化を使いながら、屋根を踏み壊さずに飛び回れる人間はどれ程いるのだろうか?


 ましてやシンの声は身体強化を使っている時のキュルキュルとした、通常の耳では聞き取れないような声ではないのだ。

 まさかと思うが喉と肺だけ身体強化の強度を上げた上で声の調子を落としているのだろうか?


 だとしたら絶句するレベルの変態的器用さだ。

 エリカの魔法の制御、その緻密さに匹敵する。


 そんな異常な奴が隣に座って言うのだ。

 そんなに積み上げたの? スゲぇじゃん。


 積み上げた物ではなく、積み上げる過程を、それこそが愛おしいと。

 そりゃ刺さるだろう、刺さるだろうさ。


 平気な顔して孤独や理不尽を甘受する癖のある、積み上げた孤高の頂きで優しい寂しがり屋。

 私の大事な親友にはそりゃもう刺さるだろ。


「参るなぁ、コレはちょっと参るなぁ」


 ルーは再びこちらに向かって走ってくる親友の顔を見ながら思わず呟く。


「我が儘は言えないなぁ」


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