第155話 短剣は短く、光は刺す、そして炎は走る6

 *


 やってしまった。

 エリカは走りながら早くも後悔していた。


 だがそれ以上に混乱していた。

 自分の感情がままならないのだ。


 やってしまったと、後悔しつつも自分が何をやってしまったと思っているのかが分からないのだ。

 裏切れないと、シンの言葉を聞いた時から自分の心が支離滅裂すぎて理解できない。


 シンが当然の事を言っただけだと分かっていても、それを受け入れられない自分が信じられない。

 あのシン・ロングダガーがそう言うのは当然なのだ、例えルーに真意が伝わらなかろうと、彼と言う人間は気にせずに言うだろう。


 それを聞いて、嗚呼そうなのだ、私がその有り様を美しいと思った人はこうなのだと、納得に似た嬉しさを感じ。

 そして同時にその言葉の先に自分が居ない事に、驚くほど唖然あぜんとした。


 道など無い荒野に一歩を踏み出す事に躊躇しない、自分の進みたい方向へ。

 驚くほど傲慢で、そのくせ優しい。


 その自由さで他者を傷つける事をよしとせず。

 それ故に荒野を進む人、その隣に自分が居ない。


 その事実に唖然あぜんとしてしまったのだ。

 怒るわけでも悲しむわけでも、ただどうしたら良いのか分からなくなったのだ。


 これで素直に嫉妬でもできれば可愛げがあったのかもしれない。

 だがあったのは混乱だけだった。


 理解できない自分の感情はまさに恐怖だった。

 自分が晒した醜態に、シンがどんな顔をしていたかも思い出せない。


 いや、それにしてもあの顔は駄目だ。

 エリカは自分に驚く住民を巧みに避けながら思い出す。


 裏切れないと、ルーにそう言ったシンの顔。

 アレは本当に駄目だと思う。


 何だあの優しげな顔は?

 横から見て思わず胸が高鳴ってしまったではないか。


 アレは駄目、ホントに駄目、問答無用で乙女の敵。

 思わずその視線の先にいるのが自分ではない事に嫉妬――いやいや、嫉妬は駄目、それは駄目。


 そこに自分がいない事は当然なのだから。

 いや駄目だ、どうやって生きていこう。


 そんな人生どうすれば良いのだ?

 世界でも焼き尽くせば良いのか?


 とっちらかる思考に振り回される。

 とにかく思考が纏まらない、感情が纏まらない。


 そのくせ脳裏にシンの顔が浮かんでどうしようもない。

 なんだあの顔は、駄目でしょあの顔は。


 逃げるように、否。

 逃げ出したにも関わらず既に彼の側に戻りたくなっている。


 いるはずが無いと分かっていて、自分が駆ける先にシンがいるのでは無いかと、視線の先を探してしまう。

 いやいや、待って、待ってください。


 エリカは自分の何一つ理屈の通らない思考に初めてそれを自覚した。

 好きな人だ、大事な人だと散々言っておいて、今更すぎて自分自身に驚く。


 思わず確認するように胸にあてたてのひらが脈打つ心臓を感じる。

 なんてこった、思考から淑女の礼節が飛んだ。


「どうしましょう? 恋してしまいました」


 口にした瞬間に叫びそうになった。

 なんです、なんなんです?


 自覚した瞬間に頭に血が上った。

 意味の分からない恥ずかしさがこみ上げる。


 叫び出しそうになる口を必死で閉じる。

 ソワソワする、ふわふわする。


 今なら空も飛べるし、大地も割れるし、山も平地に出来る。

 彼の為なら。


 世の人々はこの良く分からない感情に振り回されながら、好きだの何だの言っているんですか?

 この世には超人しかいないのか、エリカは思った。

 嗚呼、どうしよう。

 わたくし恋をしてるんだ。


 泣きそうになる程それが嬉しい。


 エリカは人混みを駆け抜けながら手に持ったままだった焼き菓子を頬張った。

 自分の行動の意味が分からない。


 でも今はそれでいい気がした。

 口いっぱいの焼き菓子は甘かった。


 *


 エリカの背中を見つけるのに苦労はしなかった。

 ヘカタイはマキコマルクロー辺境伯領最大の都市ノールジュエン程ではないが超が付く巨大な都市だ。


 大勢の人々を街に詰め込む為に、五階六階の建物はざらだ。

 つまり――屋根の上に上れば良いのだ。


 俺は右手だけでバルコニーのへりに掴まりながらエリカの背中を見つける。

 人とぶつからずに歩くだけでも苦労しそうな人混みの中を、赤い髪が残像を残しながら凄い勢いで遠ざかっていく。


 あの速度で走れる身体強化を使いながら人にぶつからずに走っている。

 相変わらず規格外すぎて意味が分からない。


 俺が真似したら大惨事だな。


「いよっと」


 下半身を振った勢いを使ってバルコニーのへりから屋根へと体を飛ばす。

 屋根を壊さないように気を付けながらエリカを追いかける。


 視界の先でエリカがぶつかりそうになった人間を風魔法でくるんで、その横を駆け抜ける。

 あの風は良い匂いがするんだろうな。


 ふと思い慌てて首を振る。

 いやいや、俺は何を考えている。


 人を縫うように走るエリカに、屋根の上を走ってなお追いつけないのだ。

 馬鹿な事を考えている暇はない。


 冒険者ギルドがある事で、通称冒険者街と呼ばれる地区からメインストリートをそのまま北上、つまりは結界の中心部へ向かって走るエリカを追い続ける。

 エリカは何処に向かっているんだろうか?


 というよりエリカは何故に走っているんだ?

 今更ながらに疑問が湧いてくる。


 エリカの“あの”声を聞いた以上、如何いかなる理由であろうと、例え嫌われようとも追いかけないという選択肢はあり得ない。

 だが、何故走っているんだ?


「……あれ? これなんて声をかけて呼び止めれば良いんだ?」


 何故か走り出した女性を追いかけて、呼び止めるには何と声をかけるべきなのか?

 ちょっと問題の難易度が鬼畜すぎないか?


 ご飯だよ、はシャラじゃないんだから駄目だな。

 決闘しよう、は師匠かエルザ向けだし。


 あっちに変な奴がいたぞ、はジェンにしか効かないか。

 パッと思いつく女性陣が思わず足を止めそうな言葉を並べてみるが、どれもエリカ向けじゃない。


 流石に非モテでもそれぐらいは分かる。

 というかパッと思いつく女性陣に碌な奴がいねぇな俺。


 よし、こういう時は単純に考えよう。

 つまりは単純バカになれば良い。


 俺は息を吸い込んだ。


「エリカァ!」


 俺は身体強化最大の喉で叫んだ。



***あとがき***


年度末が終わりそうなので、見切り発車。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る