第149話 幻に影は無く、陰に幻は無い4

 *


 マキコマルクロー教区の司教であるビバル・ビバリティーは自身の司教という立場は、自分にとっては高すぎると常々思っていた。

 シャラ程ではないにしろ、回復魔法が下手で施術派に居られなくなったような男が付くような立場ではないと考えていた。


 施術派から護民討伐派に鞍替えした後も大した活躍はしていない。

 現在のマキコマルクロー辺境伯であるコムサス・ドートウィルとパーティーを組んだのは政治的な理由というより、単純に回復魔法が使えない神父が組む相手となると貴族ぐらいしか選択肢が無かったからだ。


 若い頃の自分と言えば、魔物を倒し、祈るの繰り返しだけだった。

 それが何故か前任の司教に気に入られ、気が付けば自身が司教となっていた。


 自分よりも優秀で相応しい人間は沢山いた。

 ビバルは謙遜ではなくそう思っていたが、周囲の評価はそうではないようで、その後の立ち回りには随分と気をつかわされた。


 これ以上に不相応な立場になるのだけは回避したい。

 その一念で政治的立ち回り等も覚えてしまった。


 教会の総本山たるファルタールへの出向を命じられた時は、それもこれまでかと思ったものだが。

 ビバルはそこで天才と出会った。


 神の御技たる魔法への深い理解、明晰な頭脳、殉ずると言うには苛烈で純粋なまでの信仰心。

 当時はまだ十五歳の少年。


 それがカル・ウラシミッツだった。

 ビバルは天才を前にして、その才能を存分に押した。


 迷えば導き、惑えば背中を押した。

 自分の知る限りを教え伝え、この天才の糧になれる事に喜んだ。


 正直に言えば、この輝かしい才能を目にすれば自分のような凡庸ぼんような男に期待する人々もいなくなるだろうという打算もあった。

 予想外だったのは、ビバルがカルを押せば押す程に何故か自分の評価も上がる事だった。


 正直に言えば焦った。

 まだ三十を少し超えたばかりの自分を次代の法王候補だと、多くの者が真剣に語るのだ。


 意味が分からなすぎて恐怖すら感じた。

 自分は回復魔法も碌に使えない人間なんだぞと、大声で叫びたいぐらいだった。


 自分の預かり知らぬ所で上がり続ける評価に焦ったビバルは、強引に過ぎると自覚しつつも、かなり無茶をしてヘカタイへと帰った。

 我が信仰の在処ありか、命題とは、教義に殉ずるとは――、何か尤もらしい暴論を撒き散らして全ての留意を求める声を振り切って、ビバルはヘカタイへと帰った。


 その際、最も熱心にビバルを引き留めたのが、カル・ウラシミッツだった。

 今でも思い出せるカルの顔は、翻意ほんいさせられぬと覚った時の寂しげな顔だ。


 それはビバルにとっては明確な後悔だった。


「お久しぶりです、ビバル司教」


 それは今、こうして再会するに至って、強くビバルに意識させる。


「お久しぶりで御座います、猊下」


 最後に別れた時から、随分と大人になった物だと、ビバルはその成長を嬉しく思いながら頭を下げる。

 カル・ウラシミッツ、二十七歳、史上最年少の法王に。


 *


 自室にやってきた法王カルにお茶を出しながら、ビバルは遂に聞けるのだと思った。

 法王が光の巫女と共にヘカタイに来た理由を、だ。



 昼間に出迎えた時は辺境伯であるコムサスと一緒だった為に本当の理由は聞けないだろうと予想していた。

 マキコマルクロー辺境伯領では然程さほどではないが、本来ほんらい教会と貴族との間には明確な壁がある。


 つかず離れず、というよりもお互いに一歩退きながらも目を離さない。

 奇妙な緊張感と余所余所よそよそしさがない交ぜになったような関係が、教会と貴族である。


 案の定カルは辺境伯であるコムサスの前では、当たり障りのない、嘘ではないが真実でもない理由を述べていた。

 少なくともビバルはそのように理解した。


「お元気そうですね、先輩。それに相変わらずお茶を煎れるのがお上手だ」


 お茶を飲んでホッと息を吐きながらカルが昔の呼び方で自分を呼ぶ事に、ビバルは内心で微笑んだ。


 単純に嬉しかったからである。


「ありがとう御座います。ですが猊下、先輩はお止め下さい。私はただの司教です」


 最後に別れた時から随分と精悍せいかんになった顔に、懐かしい誠実さを見いだしながらビバルはやんわりと諭す。


「法王だ司教だ、等とは我らが人間であるが故に組織立つ為の方便に過ぎません。我らは神の前では皆平等であると私は思っています。それならば私が先輩を先輩と呼ぶのに何を躊躇ためらう必要がありましょうか?」


「そうであればこそ、組織立てなければまとまれぬ人の身です。振れられた立場に敬意を払わぬわけにはいかぬかと」


 難しいものですね、そう応えて笑うカルの顔に、年齢には似つかわしくない諦めに近い落ち着きを見いだしてビバルは内心で軽く狼狽した。

 神のしもべを自認する教会とて人が作った組織である。


 人々から向けられる無形の信頼、積もれば巨額となるお布施にと、道を踏み外す機会や誘惑は多い。

 神はおわす、されどあまねく全てを見て導いて下さるわけではないのだ。


 俗世を見れば、人の道を踏み外しても神に罰せられぬ者ばかりではないか。

 そうであるならば……、そう思ってしまう人間の弱さをビバルは否定できない。


 人は皆、探究開発派のように私利私欲に走りきった挙げ句に純粋な信仰心に限りなく近いまったく違う物に辿り着けるわけではないのだから。

 いやあの変態共の事は横に置こう。


 故に我らは教会という組織につどうのだ。

 だがその頂点に立つという事は、あの少年にこのような顔をさせる程の物なのか。


「先輩がそう思って下さるのなら、少々こそばゆいですが、ビバル司教から猊下と呼ばれる事に私は喜びを見いだせましょう。むしろ私にはもうそれしかないのですから」


 まるで自分にはもう教会での立場しか無い、そうとも取れるカルの発言に、ビバルは驚いてどういう事かと問いそうになった。

 だがその問いは、カルが手に持っていたペンダントの蓋を閉める乾いた音の前に、声にならずに遮られてしまった。


 法王の身分を示す唯一の装身具。

 世界最小の神器。


「互いの近況報告は昼間の会談であらかた済んでおりますし」


 胸の前で弄っていたペンダントから手を離したカルが、何か訊きたい事があるのでしょう? と表情だけで問いかけてくる。

 照明に照らされるその顔は、酷く重たい荷物を持つ事を強いられる老人のようであった。


 その顔に一瞬だけ鼻白む。

 自分が逃げた法王という立場、その結果として法王となった少年。


 その間に何か明確な線が引かれているのだと、ビバルは意識せずにはいられなかった。


「猊下の行幸、その理由について教えて頂けませんか? やはり、その……エリカ・ソルンツァリの件で御座いましょうか?」


 そうであるならば、結果として法王という立場を強いてしまった青年に、自分が説得をせねばならないとビバルは思う。

 逃げ出した人間が何を言うのかと、そう言われてしまえばお終いだが。


 それでもあのエリカ・ソルンツァリが神敵などと呼ばれるのは明確な間違いだ。

 それを正さねば、司教という立場ですら自分には不適格だった事になる。


 不相応であるという事実は変わらなくても、振られた立場に敬意を払うのならば、自身もその立場に真摯であらねばならない。


「確かにかのご令嬢は無関係ではありませんが」


 カルが言葉を探すように空中に瞳を彷徨わせる。


「今回の場合は本題ではありませんね」


 ビバルは安堵した。

 少なくともかの令嬢が神敵と糾弾される事は無い。


「本題は釣りですかね? 正確にはほころびぐあいの確認、ですね」


「はい?」


 続く法王の不可解な言葉に思わず尋ね返す。

 それに対して返ってきたのは微笑みだった。


 疲れた老人のような笑みはそれだけで全ての質問を撥ね除ける。


「私は今ほどビバル司教が法王であってくれたなら、と思わずにはいられません」


 それはどういう意味なのか?


「先輩、理解ほど信仰から遠い物は無いのです」


 縋るような瞳で述べられたそれは告白ではないのか?

 カルがそっと胸から下げられたペンダントを手の平に乗せる。


「司教となり神器が何かを知った時、愚かにも私は祈ってしまったのです」


 困ったような、途方にくれたような笑み。

 それはファルタール時代に何度も見た顔だ。


 決定的に違うのは、当時のカルには無かった“疲れ”の存在だけだった。


「そうであってくれと祈る、これもまた信仰からは縁遠いものなのです」


 それは祈りでも何でも無い。

 ただの願望の押しつけにならない、そんな物は信仰とは呼べないのだと、若き法王が漏らす。


 まるで罪の告白。

 それでもなお瞳は強固な知性をたたえ、揺るぎない理性は自身に投げ出す事を許さない。


 パチリ――、年若い法王がペンダントを開く。


「私は出来なかったのです。先輩のようにただ受け入れる事が。揺るぎなき自己の上に立つ、それこそが信仰であると私は理解していなかった」


 ペンダントに収められたそれは、ヘカタイの神器と同じ、赤黒く乾いていた。


「叶うのならば今からでも法王の座を先輩にお譲りしたい。先輩ならば全てを知ってなお、何も変わらずにいられたでしょうから」


 瞳に浮かんだそれは、まごう事なき憧れであり、それ故にビバルは正面から受け止められなかった。


 自分はこの青年に酷い無体を働いたのではないか?


 その疑問に答えてくれる者はおらず。

 神器は赤黒く錆のようであった。

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