第145話 バナナ以下を思ふバナナ

 *


 ウンザリするほど繰り返した王子との遣り取り。

 名前で呼べ、断る、何を言うか我が友よ、誰が友達だ。


 当たり前だがロングダガー家は貧乏子爵家だ。

 そりゃもう正真正銘の貧乏子爵家だ。


 特色と言えば歴史が長い事と、ファルタールの王都に自家のちょっとした屋敷程度の所領を持つ事ぐらいだ。

 国土は全て王の物であり、貴族はその土地を治めよと王からお預かりしている、というのがファルタール貴族の建前だ。


 それを考えればロングダガー家が王都に領地を持つというのは非常に特殊な事なのだと、学園で知り合った友人、ジェニファーリン・パンタイルに教えて貰ったが。

 それすなわち領地から上がる収入が無いという事である。


 ロングダガー家と違い自家の領地を持たない子爵家男爵家が、領地持ちの伯爵や侯爵の下で領地の一部を治めて収入を得ている事を考えると、我が家の貧乏の原因は王家のせいであると言える。

 子爵家男爵家は王の臣下ではなく侯爵伯爵の家来、等と王家への忠誠心の低さを揶揄やゆされる事があるが。


 何の気紛れか子爵家に使えない領地を与えてくれた王家に対して、我が家、というか俺の忠誠心なんぞ発揮されるワケがなく。

 何なら会う度に貴族には伝わない平民仕込みの下品なハンドサインをくれてやっても良いくらいだ。


 当然ながら学園でそんな王家の次代様と仲良くしようと思わなければ近づきたいとも思うワケがなく。

 王家の気紛れのせいで領地持ち子爵家なる奇妙な存在である為、これ以上の気紛れなぞ要らぬと周囲にドン引きされようが忠も信も献も偽る事無くぶん投げたのだ。


 そしたら“コレ”である。

 始めてまともに言葉を交わした剣術の授業の時から俺の事を我が友とか呼ぶようになったのだ。


 意味が分からん。

 そして気持ち悪い。


 俺が何度、誰が友達だ、と言った所で、「おお、流石ロングダガー」などと理解不能の反応を返してくるのだ。

 幸い剣術の授業以外で俺に絡んで来るような事は無かったが、それにしても「貴様は奥ゆかしいみたいだからな、友の意を汲むは親友のたしなみよ」と言っていたので、シンプルに気持ち悪い。


 俺が学園を離れて、光の巫女の事で頭がいっぱいになったら多少はマシになるかと思ったが。

 花一杯の頭では正気が差し込む隙がなかったようだ。


 だが、誰も信じないかもしれないが、今回俺はちゃんと貴族として立ち振る舞うつもりだったのだ。

 だから自分の、もしくは自分がつかえる者の為のマウント合戦も、まぁ後でちょっと夜道で転んで貰う程度で済ませてやろうと思ったのだ。


 こっちが貴族家当主でも無いのだから、向こうからすれば舐められるワケにはいかない、というのは理解してやらんでもない。

 対等に扱う事が既に舐められると同義である、というのも理解してやろう。

 だがエリカの嫌がる事を言ったのは許せん。


 俺はエリカをソルンツァリと呼ぶ王子とエリカの間に口を差し込んだ。

 俺が不愉快だから止めろと。


 茶番の為に家名を捨てる事となったエリカをソルンツァリと呼ぶ。

 何とも王家や貴族らしい嫌がらせだ。


 しかも、茶番であろう等と、エリカの輝かしい未来を奪った貴様らがどの口で言うのか?

 そう思いつつも、自分も最初はエリカ・ソルンツァリと呼んでいた事を思い出して自死したくなる。


 名前を呼び捨てる事が恥ずかしいという理由で、彼女の気持ちをおもんばかれなかった自分の愚かさが腹立たしい。

 エリカは俺の愚かさを覚悟の現れであると許してくれたが、今更ながらに後悔だけが募る。


 だからこそ見過ごせるはずがないのだ。

 俺は近衛だかの忠誠心マシマシの頭の固そうな騎士が激高すると思いつつも学園の時と同じような口調で王子に話しかけた。


 お忍びだから、王子が学友としてと会うと言ったから、それらがあってなお通らぬ無理だ。

 学園の内なら通る無理だが、外では絶対に無い。


 王子が良いと、態度と言葉で意思を示そうが周りがそれを許さない。

 ほらな?


 俺は案の定激高げっこうした近衛の男を見て思った。

 さてと、これで後は斬った張っただ。


 護衛として雇われている師匠とエルザとも戦う事になるが、まぁ仕方ない。

 最終的に負けるかもしれないが、少なくとも一度は必ず王子を殴れる。


 よし、護衛が剣を抜いたらやるか。

 近衛騎士の長い口上に暇しながら身体中に魔力を行き渡せる。


 剣は棚の中だから素手で師匠の相手かぁ。

 事が始まって剣を取り出す暇なんてあるとは思えない。


 どうにかして師匠の両手を抑えてる所にソルンツァリの秘技を当てて貰うぐらいしかないか?

 うーん、いきなり辺境伯に首を噛み千切られる事になりそうだ。


 よし、殴るか。

 近衛の男をぶん殴って、次は王子を殴る。


 俺が踵を上げようとした瞬間だった。

 男が派手な音を立てながらエリカにすっ転がされた。


「誰を痴れ者とおっしゃられたか?」


 凄まじくエリカが怒っていた。

 眉が完全にフラットである。


 ちなみに痴れ者と呼ばれたのは俺だ。

 一瞬、エリカが俺の為に怒っているのかと思ったが、続く「わたくしの夫と知っての言であろうならば」という所で違うと分かった。


 つまりは俺を馬鹿にするとは、その妻である私も馬鹿にしているのだと怒っているのだ。

 貴族が他人の喧嘩に横から殴りかかる時に良く使う手だ。


 いや、それにしても凄まじい。

 俺は男の背中を踏みつけるエリカを見て感心する。

 床が男の鎧で傷つかないようにと、男の身体をほんの少しだけ風魔法で浮かせている。

 そこまで精密な魔法制御となると、もはや大道芸の域だ。


 そんな大道芸が出来る奴は知らないが。

 エリカがちらりと俺の方を見ると、実に気品ある口調でお喧嘩お買い上げ致しますわーと宣言する。


 それにしても意外である。

 俺と違ってエリカはソルンツァリ家の長女だ。


 ファルタール貴族の長子に対する教育は割と実践派なので、エリカは俺とは比べものにならないくらいに貴族のアレコレを体験しているはずなのだ。

 慣れてもいるだろうし、かわし方もいなし方も心得ているだろう。

 そのエリカが横から喧嘩を掻っ攫うとは思わなかった。


 そんなにその男に腹が立っていたのだろうか?

 もしかしたら口上の長さにイラってきたのかもしれないな。


 いやしかしまぁ、本当に。

 貴族の面子の張り合いなんてのは、シャラの言う通り、バナナを巡って争う猿以下だ。

 そしてそれを学園で真正面から粉砕してきたのがエリカなのだ。


 それこそ、王家と大貴族連中が手を組んで排除しようと決意する程に。

 面倒だからと面子自体をぶん投げた俺とはまったく違う。


 エリカに踏みつけられた男が何事かを叫ぶが、怒りのせいか舌がまわっていない。

 まぁそんな体勢で流暢りゅうちょうに口が回るのは、俺の知り合いの中ではシャラかどこぞのパンタイルしかいないが。


 男がうるさかったのか、エリカが更に力を足に込め、ぐぅっと男が唸る。

 それを冷めた目で見ながら、さてどうしようかと考える。


 とりあえず王子を殴るのは確定だが。

 ここで俺が王子を殴りにいったら単純に事態がややこしくなるだけで何の解決にもならない。


 気分はスッキリするだろうが。


「エリカ……“ロングダガー”」


 実にかれる選択肢に俺が迷っている内に王子が口を開いた。


「すまんな、そやつは忠誠心高く腕も立つ故に近衛に引き立てたが、如何いかんせん男爵家の三男でな。貴族礼典範てんぱんは十分知ってはいるが宮中礼典範てんぱんまで十分に知っているとは言えんのだ」


 王子がチラリと俺を見る。


「特にロングダガーに関しては柱書きですらない脚注である事もままあるからな」


 直接的ではないものの、実質的な王子からの謝罪にエリカが意外そうな顔をする。

 ちなみに俺も意外だった。


 特に貴族礼典範と宮中礼典範が出てきたのは意外な上に意味が分からなかった。

 年に一度、全ての貴族家に配られる分厚い二冊の本。それは貴族がわきまえるべき礼儀が書かれた本だが。


 我が家では基本的には鍋敷きだ。

 流石に改訂があった事を示す赤い表紙の物は鍋敷きにはならないが。


 それでも真面目に読むのは親父殿と兄上ぐらいで、それも自分が関係する部分だけだ。

 要は下っ端貴族が関係しそうな所だけだ。


 宮中礼典範に至っては年一の新年を祝う祝賀会に出席する前にちょっと確認するぐらいだ。

 親父殿は仕事で毎日登城しているが、そこは城内ではあるが王家の領域である宮中とは別だ。


 求められる儀礼は宮中のそれとは別だ。

 侯爵家や伯爵家でもあの分厚い二冊を全て覚えている者はいないだろうし、ましてや子爵家で真面目に覚えよう等とする者は仕事で必要な人間だけだろう。


 王子に意外そうな、そして不審げな視線を送っていたエリカが一瞬だけ遠くを見るような目をする。


「まさかあの不可思議な脚注はロングダガー家に向けての物だったと?」


 訂正する、脚注まで思い出せる人がいたわ。

 エリカの呟きに王子が何故か自慢げに頷く。


 毎年新品になる鍋敷きとしか思っていなかった俺は取り残されっぱなしだ。


「シン」


 エリカが俺を見る。

 いい加減に足をどけてやったらどうだろうか?


「貴方は……その、ダリル王子とご友人でしたの?」


 エリカにまで王子と友人なのかと問われて泣きそうになる。

 友人成分など皆無だ。


「違う。たまさか剣術の授業でご指名されてずっと相手させられてただけだ」


 俺は手短にエリカに説明する。

 学園の剣術の授業で、本来なら順繰りに対戦相手を変えておこなわれる組み手で延々えんえんと王子の相手をさせられた過去を。


 そう、そうなのだ。俺は苦い過去を思い出す。

 俺は何の理由か、俺の相手は必ず王子だったのだ。


 組み手だけならともかく、二人一組になる場合は必ず王子と組まされるという徹底ぷり。

 おかげで俺は学園に通う間に、エリカに転ばされる事も突きを放った後の鋭い視線も見れなかったのだ。


 理由は分からないが、推測するに王子が将来の臣下たる貴族家の子息を傷つける事を危惧したのだろう。

 授業で使われていた剣は、並の剣が十本は買えるだろう怪我をさせないような特殊な剣だった。


 だが学園はそれでは不十分だと考えたのだろう。

 だったら万が一怪我をさせても問題のない貧乏子爵家の次男坊をあてがえば良いというワケだ。


 なんという迷惑か。

 何が悲しくてエリカの顔を真正面から堂々と見つめる機会をふいにしなければならないのか?


 腹が立ったので初回の剣術の授業で二回転させてから地面に転がした。

 そしたらやたらと元気になって斬りかかってくるものだから転がしまくった。


 結果、コレだ。

 これぞロングダガー、とか言い出したかと思うと気が付けば我が友扱いである。


 当然ながら断ったが相手は聞く耳なぞ持たず、せめて剣術の授業以外では話しかけるなと言ったら、その奥ゆかしさもまさにロングダガー、と非常に気持ち悪い事を言われた。

 この時には王子が光の巫女に目玉グルグルさせていたのは周知の事実だったので、そんなんじゃ光の巫女に嫌われるぞと内心で思ったものだ。


 とにかく、俺は嫌な顔をしながら王子とは友達じゃないと告げる。


「だ、そうですが?」


 そう問いかけるエリカは何故か自慢げな顔だったが、それに応える王子の顔は更に自慢げだった。


「茶番とは言え貴様も今やロングダガー、故にその不遜さは許そう。だが偽りの立場であろうとシンの奥ゆかしさを理解していないのは愚かな事だな」


 愚かなのはお前の頭だよ。


「激発すれば火を垂れ流すソルンツァリらしい思慮の浅さと言えばらしいが、刀剣ばかりを眺めていた目では目前もくぜんの玉の価値にも気がつけまい。茶番劇の相手なら適当に見繕みつくろってやる故、俺にロングダガーを返せ」


 本当にお前キモいな。


「貴様ら上級貴族連中はロングダガーを王家の喉に突きつけられた短剣などと思っているようだが、笑止な。手にある短剣の価値すら気がつけぬ様であるなら茶番の相手がシンである必要などあるまい、俺が貴様に都合の良い者を選んでやる。条件ならば聞いてやろう、顔か?金か? それとも死体で送ってやっても良いぞ、死人であれば火に焼かれても黙って灰になるだけだ」


 何をお前は言い出すのか?

 俺は焦った。


 エリカにハイお願いしますと答えられたら終わりである。

 横からしゃしゃり出てきた挙げ句に俺がエリカの側に堂々と居られる理由をぶんどりに来やがった。


 たまったもんじゃない、このまま黙っていられるかと口を開こうとした瞬間に思わず口ごもった。

 エリカの顔が言っていた。


 コイツ殺すか、と。

 瞬間、色々な考えが頭をよぎる。


 本当に、本当に全てを捨てるのだ。

 エリカが故郷へと帰る事が可能となるかもしれない未来、約束された輝かしい未来を取り戻す可能性を全て捨て去る。


 光の巫女がどうのも、何もかも捨て去ってエリカと二人で誰も追って来れないような遠くへと行くのだ。

 後悔するだろうか?するだろう。


 二度と会えぬ家族、友人、手に入れられたかもしれない全ての物、それら全てを天秤に乗せて釣り合いが取れる様な物など俺は何も持っていない。

 俺にとってはエリカが居ればそれだけで良いが、彼女は後悔する事になるだろう。


 エリカが王子を殺すか、と考える程に怒っている理由は分からない。

 分からないが、まぁそんな選択肢を彼女に選ばせる事は出来ない。


「本題に入るに随分時間が掛かったが政治の話とはこの事よ。彼女には俺の方から上手く説明しよう、シンは貴様の“本命”がこちらに到着するまでの護衛か何かだった事にすれば良い。そして俺はその“本命”と貴様を許してやる事を告げる為に来たのだ、貴様は彼女にこう言えば良い、気ままな自由な生活が気に入りましたので国には戻りませんと」


 エリカの気配が鋭くなる。


「これでシンは晴れて茶番劇から自由となろう」


 ギリ、という音を俺は確かに聞いた。

 エリカが奥歯を食いしばった音だろう。


「王子」


 一歩前に進み出た俺はひざまずく、所謂いわゆる臣下の礼という奴だ。

 既に直言を交わしているので面までは下げない。


 エリカが目を見開き、王子が不愉快げに眉を顰める。


「ファルタールの安寧あんねい一身に受け持つ大難大任を綿々めんめん受け継ぐ高貴なる血のお方に、無作法にも直言にて請願せいがん致す無礼をお許しください」


 王子の顔が更に不愉快げに歪む。

 まあそうだわな、ほんの少し前まで敬意も何もあったもんじゃない態度だった人間がかしずへりくだった所で不愉快なだけだろう。


 だが俺にはこれぐらいしか差し出す物がない。

 商売の天才パンタイルならぬ身では分の悪い商売だろう。


「待てシン、何故にひざまずく、それに何だその口調は」


「殿下の御寛恕ごかんじょすがろうとするのであれば、今更の無様と言われようとも、平で話すわけにはいきませぬ」


 こっちが我慢して慣れない礼儀を脳みそから捻り出しているというのに待てとは何だ待てとは。

 何故か焦る王子を無視して俺は言葉を続ける。


「この身は何者でもあらず非才、王家にたまわったご恩お返しするに至らぬ内に御寛恕ごかんじょ強請ねだろうとは恥を知れとお怒り受けても甘受する所存でありますれば、されど話は茶番の上とあっても我が妻の事でございます。そうでありますれば――」


「待て!待て!待て!」


 王子が声を荒げて手を振り遮ってくる。

 人の話は最後まで聞きましょうって教育されてないのかコイツは?

 俺だって緊急時じゃなければ最後まで聞いてから殴るんだぞ。


「止めよ!シン、俺にそのように話しかけるな、お前からそんな風に話されては……」


 王子が一瞬だけ呆けたような顔をする。

 まさか、小さくそう呟いたかと思うと歯を食いしばりエリカを睨み付ける。


「そういう事かエリカ・ロングダガー! 光の巫女ならずロングダガーまでとはッ。貴様らソルンツァリはいつもそうやって我ら王家から平然と奪っていく!」


 勝手に我が家を王家の物にするなと、喉まで出かかるが、言葉になる前にエリカが実に優美に自慢げな顔をする。

 俺は安堵する。


 どうやらエリカの面子は、俺より良い選択肢を選ぶより、お前が勝手に決めんな、という方向に優先度があったらしい。


「これはまた異な事を。あまねく臣下は全て王家の物でありましょう。わたくしは既に籍を抜けておりますので違いますが、ええ違いますが」


 その顔に浮かんだ微笑みは実にソルンツァリらしく傲岸ごうがんであり挑戦的だった。


しかし、臣下としての礼典範を幾ら書き重ねようとも手に入らぬ物があるとはご理解たまわりたいというのも、また臣下の本音でありましょう。わたくしは“元”でございますが」


 上品に口元を手で隠してエリカが言う。


「格以上をお求めになられる愚行のご再考を忠言いたしますわ、元として」


 主に格を知れと言われ、エリカの足下で鎧の男が喚く、踏みつけられている為か怒りの為かまともな言葉になっていない。

 背後でシャラが呆れた声で呟くのが聞こえてくる。

 まさかシンさんを巡って争うとか。


「成る程、確かにバナナを巡って争う猿の方がまだ建設的ですね」


 俺はバナナ以下と言いたいのか?

 まあ、否定しきれない。


 要はお前に勝手に決められるのは許せねぇ、という面子の張り合いだ。

 その間にぶら下がっているのが、今回はたまさか俺なだけである。


 バナナは食える分だけ俺より上等だろう。


「貴様――」


 視線を更に鋭くする王子に、もうこれ殴って収める方が手っ取り早いなと思いつつ立ち上がる。

 本番の光の巫女が来る前から混沌に過ぎる。


 ちょっと挨拶を交わすだけでこれだ。

 溜息を押し殺して右手に力を込める、慎重に。

 眼底骨折か気絶で済むように。


「我が友の前であればと――」


 よし殴って黙らせよう。


「遅いぞ弟子ぃ!」

「遅いぞ兄弟子ぃー」


 握った拳は見たくない現実から目を逸らす為の目隠しとなり、込められた力は膝から崩れ落ちるのを耐える為に使い尽くした。

 家主の許可無く扉を開け放った理不尽が言う。


「話が長い男は嫌われるぞ」

「嫌われるぞー」


 愛すべき我が家が混沌で満たされる。

 コイツらをファルタールに追い返す為なら裸で魔境の最奥を目指しても良い。


 ほんの少し前まで確かにあった、平穏な我が家を懐かしく思いながら。

 俺は深々と溜息を吐いた。


 *


 混沌に混沌を足したらどうなるか知っているだろうか?

 大混乱、とか思った奴はおめでとう、君はまだ本当の混沌という物を知らない。


 その幸せを噛みしめてくれ。

 答えは平穏が訪れるんだ。


 狼狽している時により狼狽している人を見ると逆に落ち着く現象と同じだ。

 このままでは“ヤバい”と全員が思ったのだろう。

 師匠とエルザの乱入により俺達は一斉に冷静さを取り戻した。


「なんだ、嫁ちゃん。そいつが何か失礼な事を言ったのか? 敬意のない奴は踏みつけるんじゃなくて殴ると良いぞ」


 男を踏みつけるエリカを見た師匠が蛮族の理論を振りかざすと、エリカがそっと足をのけて俺の隣に戻ってきた。


「いえ、長旅で背中の筋肉が強ばっていると仰っていましたので、踏みほぐして差し上げていたのですよバルバラ様」


 優美な一礼を返しながらエリカがそう答えると、師匠はそれを「ふぅん」という一言で流してくれた。

 信じたわけではなく、きっとどうでも良かったのだろう。

 激高してたはずの鎧の男までもわざとらしく、いやぁ楽になりましたと言いながらノビをし、王子が満足げに頷く。


 俺含め全員が師匠が妙な親切心を発揮しない事を祈っていた。

 戸惑っていたのはシャラだけだ。


 ちなみにエルザは最初からどうでも良さげでだった。

 ホント助かる、お前のそういう所は大好きだぞ兄弟子は。


 混沌が更なる混沌の前に敗北し霧散する。

 とは言えそれは冷静であるという事ではない。


 あるべき人物がいない、という事に全員が気がついていなかった。

 最初に気がついたのはエリカだった。


「あの、お二人は護衛では?」


 エリカの発した疑問は言葉足らずではあったが、それが想起させた疑問は王子と鎧の男を顔面蒼白にさせるには十分だった。


「エルザの魔法で馬車ごと鉄の箱の中に入れたから大丈夫だ」


 師匠が何でも無い事のように光の巫女をエルザ製の鉄箱の中に閉じ込めていると言うと、王子と鎧の男が慌てて飛び出していった。

 それを見てエルザが、ちゃんと光りを通す鉄にしたのにと不満げに呟いていたが、そういう問題じゃない。


 外からエルザを呼ぶ声と固い物を叩く音が聞こえてくる中。


「お茶の用意をしますね」


 とエリカが酷く冷静な声で言ったのが耳に残った。

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