第142話 修羅場るシャラ1

 *


 私の命はパン一枚と等価である。

 いや、日々の糧とは命その物である、ならば最初から人の命はパン一枚程度の価値しかなかったのである。


 シャラは命の無価値さを思った。


「叫びすぎて喉が痛いです」


 それはともかく、シャラは隣を歩くエリカに愚痴る。

 愚痴られたエリカが申し訳なさそうに笑うが、その顔を見ただけで溜息が出そうになる。


 普通の夫婦の練習という名の拷問は、初手からして酷かった。

 まずは帰宅の練習から、というシンの提案から始まった小芝居は、それはもう酷かった。


 帰宅の挨拶は普通だったがその後が酷かった。

 一般的な夫婦像という事でエリカがシンを家で待つという想定だったが、シャラからするとこの時点で設定に無理がある。


 待つわけがないのである、万の大軍に真正面から突っ込む時も、竜の群れに挑む時も、きっとエリカは隣に居る、シンさんの。

 自分は十歩ほど後ろにいよう。


 というわけで家で帰りを待つという設定が失敗しているエリカが、ただいま、と玄関を開けたシンをむかえる。


「おかえりなさい貴方」


 シンから上着を――長い議論の末にトゲ無しバージョンになった――預かったエリカが柔らかに微笑みながら言う。


「すぐにお食事にしますか? それとも――」


 この時点でシャラは嫌な予感を感じた。


「魔物狩りしますか?」


 何を見せられるのかと恐怖に震えていたシャラは叫んだ。

 初手から普通を踏み外すなと。


 キョトンとした顔で「平民の方は四六時中働いていると聞いていたのですが?」と問うてくるエリカの顔は本気だった。

 確かに平民は貴族に比べたら働いている時間は多いだろうが、帰宅して食事の前に魔物狩りに行くかと問われる程には働いていない。


 駄目だ、大貴族だったエリカにまともな平民の感覚なぞ土台からして無理だったのだ。

 愚かにもシャラはシンに助けを求めた。


 貧乏子爵でありかつ冒険者として平民の中で多くの時間を過ごしてきたシンさんなら、と愚かにも期待したのだ。

 顔に期待と疑問が乗ったのだろう、シンが頷く姿にシャラは安堵あんどした。


 愚かしさも極まれば諧謔かいぎゃくとなる。



「俺は食事前に良く一狩りしにいったぞ?」


 シャラは再び叫んだ。

 

「普通だつってんだろ!」


 万事が万事こんな感じだった。

 何を間違えたらこんな“普通”になるのか?


 そもそもエリカを追放した連中に見せる“普通”に帰宅シーンが含まれるハズが無いのだ。

 嫌がらせか? これは実は私に対する嫌がらせか?


 普通の平民夫婦の雑談の練習をしだした途端、二人して黙ってモジモジしだした所でシャラは確信した。


「本当に酷い目にあいました」


 再び隣に歩くエリカに愚痴る。

 ロングダガー宅からの帰り道だ。


 精も根も尽き果てたシャラを心配してエリカが付いてきてくれている。

 自覚があるのか、シャラの愚痴にも苦笑で頷いてくれるのは有難いが誰のせいだと言いたくなる。


「エリカは違うにしてもシンさんは今も貴族なんだから、普通の平民夫婦なんていう演技はしなくて良いんじゃないんですか?」


 シャラは口から出そうになる文句を今更な疑問で上書きする。


「えぇまあ、そうですよね」


 珍しく曖昧な同意を返すエリカにシャラは首を傾げそうになる。

 シンさんの同行を断った上にこの態度である。


 これは何か相談でもあるのでしょうか?

 そういうのがあるなら人をここまで疲弊させないで欲しい。


 普段よりゆっくり歩きながらエリカの反応を待つ。

 が、一向にエリカが口を開かない。


 これはマジなやつじゃないですか、やだなぁ、本当に疲れてるのに。


「エリカ」


 そうは思いつつもシャラは口を開く。

 結局の所自分はこの夫婦が気に入っているのだ、随分と、いやかなり、というか激烈に苦労させられているが放ってはおけないぐらいに。


「何か悩みごとですか?」


 自分の声にエリカが刹那の逡巡しゅんじゅんを浮かべた事にシャラは驚く。


「実は」


 うわ、マジなトーンだ。

 シャラはエリカの声音に気を引き締める、真面目に聞かねば駄目だやつだこれ。


「最近シンがちょっとおかしいのです」


 シャラは下唇を噛んで耐えた。

 つい口から出そうになる「いつもの事では?」という言葉を必死で耐える。


「それは、どう変なのですか?」


 夫婦にしか分からない異変という物があるのかもしれない。

 そう思えばこそ問い返せた。


 自分に問い返されたエリカの顔が深刻だったからこそ、声に心配も混じる。


「その……」


 先程以上の逡巡しゅんじゅんがこもった声。


「シンが私に優しすぎるのです」


 パーン!

 シャラが自分の頬をった音が鳴った。


 何事かと驚いた顔で自分を見てくるエリカにシャラは首を横に振った。


「いえ、どうぞ続きを」


 シャラはエリカに続きをうながす。

 自分の奇態にエリカが若干心配そうな顔をするが無視する。


「シンには、その、ある目的があるのです」


「はあ、そうなんですか?」


 前後の繋がりが分からなくて溜息のような相槌が口から漏れる。

 あのエリカ大好き魔人がエリカに優しい事と、目的があるという事に何の関係があるのだろうか?


「おそらくですが、シンは目的がありながら、今はわたくしとの茶番劇を優先してくれているのです」


 茶番劇、と言われてシャラは一瞬首を傾げそうになった。

 が、すぐにこの二人はそういう設定だったなと、思い出した。


 というかその設定って生きてたのか。

 面子メンツ商売の貴族とはかくも面倒な物なのかと感心すらする。


 貧乏子爵家の次男坊と自分を卑下するシンさんですらその面倒から逃れられないのかと思うと、貴族というのも大変なんだな。

 偽装結婚であるという建前がそんなに大事な物なのかと疑問には思うが、平民である自分には分からないだろうと、シャラは理解を諦める。


「わたくしは今、シンの邪魔をしてしまっています。ですがシンはそれをおくびにも出しません」


 あのシン・ロングダガーにエリカより優先するような目的なんて物があるのだろうか?

 嫁に贈る指輪の為に黒化した竜種と戦うような男だぞ?


 その時点で自分の命よりエリカを優先してるよ?

 エリカに嫌われない、という条件がつけば真実なんでもやるぞ、きっと。


「それが彼の覚悟であると、わたくしは納得しました。ですがそれとその優しさに甘えるというのは違うと思うのです」


 旦那からの優しさには際限なく甘えてもいいのでは?

 なぜそんなにも甘え下手なのか?


 シャラは赤毛の友人が深刻な顔で、旦那に優しくされて困っていると吐露するさまに首を傾げそうになる。

 いやそれにしても口の中が甘い。


 何なのだこの相談は?拷問か?

 相談者の顔が真剣でなかったら秒で放り投げてるぞ。


「ええっと」


 とりあえずこれ以上の砂糖を耳に突っ込まれる前にシャラは口を開く。


「つまりエリカはシンさんの優しさに応えたいという話ですか?」


 何故かエリカが驚いた顔をする。

 自分の質問に対してエリカが驚いた顔を浮かべた事にシャラは危機感を覚える。


「いえ、シンの邪魔をしないようにわたくしが消えるべきかという相談ですよ?」


「やめてください」


 どこにそんな要素があったのか。

 唖然としつつも即答でエリカを止める。


「大惨事になる未来しか見えないので、絶対に、良いですか? 絶対にやめてください」


 シャラはついこの前のエリカを思い出す。

 三日だか旦那と会わないだけで家の庭に風呂を作り出した女なのだ。


 消えるだなんで無理に決まっているし、消えられたシンさんが何をするか分からない。

 下手したら二人して爆発だ。


 その結果がどうなるか想像すらつかない。

 自分はまだ死にたくない。


 ですが……。

 何かを言い募ろうとするエリカを遮る。


「シンさんからの優しさに応えたいか報いたいか、何でも良いですけど消えるのは絶対に駄目です。そんなに心苦しいと言うのなら、ほら、贈り物とかしたら良いじゃないですか」


 普通なら一番最初に思いつきそうな事を提案する。

 何故こんな簡単な事を思いつかないのかと、赤毛の友人の顔を見ると何故か苦しげな顔が目に入った。


 またぞろ嫌な予感がする。


「わたくしがシンに与えられる物などあるでしょうか?」


「何でもありだよっ!」


 我慢できなかった。

 あの男はエリカから貰った物なら何でも喜ぶよ!


 そこに転がってる石でもエリカから手渡しされたら喜ぶよ!


「そんな石だなんて、わたくし真剣に悩んでいますのよ?」


「真実ですよ?」


 頭痛を堪えながら漏らすシャラにエリカが苦笑を浮かべる。


「元気づけてくれている、のですね? 悩むくらいなら石でも良いから感謝を示せと、励ましてくれているのですね?」


 そう言って、少し気が晴れたと指に髪を絡ませ微笑む友人にシャラは息をのむ。

 この赤毛の友人はふとした仕草に妙な艶やかさがあって困るのだ。


 飲み込んだ息の代わりに溜息を吐く。


「まあ、その、そんなに思われているのなら贈り物をするぐらいは普通でしょ」


 思われているのなら、自分の言葉にエリカが奇妙な表情を一瞬だけ浮かべる。

 ――何か地雷を踏んだ、シャラがそう思う間もなくエリカが口を開く。


「そうですね、夫の為に何かを贈るというのも良いですね」


 何か形に残る物を。

 その真剣な声音に、シャラは奇妙な程の罪悪感を感じた。


 *


 翌日、光の巫女一行が訪れた。


「成る程、確かにバナナを巡って争う猿の方がまだ建設的ですね」


 シャラ・ランスラは目の前の光景に知らずそんな事を呟いた。

 鎧を着た男がうつ伏せに転がされ、その背中をエリカに踏みつけられて何かを喚いている。


 顔を真っ赤にし立ち上がろうとしているが、その背中を踏みつけるエリカの足は微動だにしない。

 ついでにその表情も微動だにしない。


 正直超怖い。

 シャラ・ランスラは思わず、どうしてこうなったのかと現実逃避した。


***あとがき***

年内最後の更新となります。

年末年始がバタバタしていますので、ちょっとコメントの返信なんかには遅れるかと思います。

来年もよろしくお願い致します。

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