短編6 ロングダガー狩猟日記(オーガっぽい)

短編6 ロングダガー狩猟日記(オーガっぽい)


 魔法を習得する、というと大体の人間が勘違いするが、その本質は暗記ではない。

 魔法陣を覚える、という点においては確かに暗記ではあるが、それを実際に自身の体内にて構築する段階に置いて人は驚くほど曖昧だ。


 殆どの人間はなんとなくで魔法陣を構築している、というのが実情だった。

 では魔法陣は曖昧、大雑把に合っていれば魔法は発動するのか? というと発動しない。


 それは同じく魔法陣を使用する魔道具において確認できる。

 魔石を加工し、魔法陣を組み込む事によって魔道具となるわけだが、その際に間違った魔法陣を描き込んだ時は全くもって効果を発揮しないからだ。


 つまり人間がその体内に魔法陣を構築する際にのみ、曖昧に魔法陣を描いても魔法が発動している事になる。

 これは全くもって不思議な事であった、理屈に合わないではないかと何人もの人間が首を傾げる事実だった。


 教会はそれを神の御技の模倣であるのだからと、深く考える事を止め。

 貴族はそれを適正、血統であると結論づけた。

 そして冒険者は元より使えるなら何でも良かった。


 だがビックリするほどの貧乏子爵家の次男坊、シン・ロングダガーにとってはそうではなかった。

 シンは体感と経験によって何故そうなるのかを理解していた。


 魔力が見える、という特殊な体質により、彼は見ようと思えば体内に構築される魔法陣が見る事ができた。

 体内から放出する類いの魔法が殆ど使えない為に、幼い頃から魔力が枯渇するほど魔法の習得に熱を上げていたからこそ気が付いた。


 魔法陣を構築する際に、同じ魔法陣を同じ場所に構築すると前よりスムーズに構築できる事に。

 それは数を重ねれば重ねる程に顕著となり、数えるのも馬鹿らしくなる程に重ねた時には、殆ど自動的とすら言える程となる事に。


 魔法を使う者からすると体験的に感じているこの現象を、視覚により実感したシンは以降、意図的に身体の部位によって構築する魔法陣を決める事とした。

 つまり魔法を習得するとは、シン・ロングダガーからすると反復するという事だった。


 *


 擦り傷を治せるようになるのに半年かかる。

 というのは回復魔法の習得の難しさを表す言葉だが、それが全くの誇張でない事をジェニファーリン・パンタイルは知っている。


 何せ男爵家の長女だ。

 魔法は幼い頃から、特に回復魔法は早くから教えれている。


 自分の子供に魔法を教える、というのは貴族としては当たり前の行為だが最も優先されるのは回復魔法だ。

 回復魔法を習得しておけば怪我で死ぬのを防げるし、毒殺の脅威も防げるのだ。


 貴族の子供が死ぬ時は十歳以下が多いのは回復魔法の習熟に時間がかかるせいもあるが、暗殺の類いが容易なのがその辺りの年齢なまでのせいでもある。

 いやそれにしても――。


 商売と投資と浪費の天才、最もパンタイルらしいパンタイルと呼ばれるジェニファーリン・パンタイルは、自分はあれ程出鱈目な回復魔法は使えそうにないなと思った。

 折られた端から腕の骨を繋ぎ治したシン・ロングダガーが吠える。


 痛くないのだろうか?


「おう!俺の腕はまだ二本あるぞこの野郎!」


 成る程、やせ我慢か。

 ジェニファーリンは、シンとて腕の骨が折られたら痛いのだと当たり前の事に安堵した。


 *


 アイツは本当に俺と同じ十三歳なんだろうか?

 シンは目の前で広げられる魔法のような光景に首を傾げそうになっていた。


 王都から出発し二日目の朝のことだった。

 野宿の後始末をし、寝袋を気合いと根性でコンパクトにまとめ、朝食代わりの干し肉を囓りながら歩き出して一時間。


 難しい顔をする老婆と商人風の男を見つけた所からこうなった。

 街道脇に互いの馬車を止め、何やら揉めている、というよりも一方的に老婆が商人に話しかけられているようだった。


 それを見たジェニファーリンはシンが止める間もなく跳ねるような足取りで近づき、首を突っ込んだ。

 遠慮や躊躇など欠片も無く、ましてやそこには善意はなかった。


 強いて言うなら、シン・ロングダガーが強いてその行動を言うのなら。

 ただそうしたいからしたのだ、と言うだろう。


 ジェニファーリンが聞けば、君の無自覚で傲慢な強欲さ程ではないと、呆れるような事をシンは考えた。


 当然ながらそんな人間は、双方から何者だという不審の目で見られるわけだが。

 ジェニファーリンはその不審をものの見事に、たったの二言三言で粉砕し、多少は賢かった商人が主導権が一瞬で持って行かれた事に気が付き抵抗するが、ふんもかからずに轢殺れきさつされた。


 そこらの侯爵家よりも金持ち、というよりも殆どの侯爵家よりも金持ちであるパンタイル家の長女であり、おそらくテントすら無い野宿を始めて経験した少女は、その直後とは思えぬ溌剌はつらつさで、話しまくった。

 ゆっくり追いかけたシンがジェニファーリンの隣に立つ頃には、恐ろしい事に彼女は完全に裁定者となっていた。


 老婆も商人も突然の闖入者ちんにゅうしゃであったはずのジェニファーリンの言葉に真剣に耳を傾けている。


「ああ、商人殿よ。確かに儲けは大事だ。それこそが肝要かんようだ。機を見て利幅を増やさないとは商人の風上にも置けぬ。されどそれでも守るべき流儀はあろうさ、商人なのだから。商談相手に利が無ければそれは商売とは呼べない。奪うだけなど略奪者と変わらぬではないか、そんな詰まらぬ事がしたくて我ら馬車を曳くわけではあるまい?そんな無粋は税を取るしか能の無い貴族共にやらせておけば良いのだ。我ら商人は、商人であるならば肥やし増やし行き渡らせ、溢れた財貨の更にその上に富を建てれば良いのだ」


 良く回る口だなぁ。

 というよりコイツ、略奪者と貴族を同列に語っているぞ。


 お前も貴族だろうと、言いたくなる気持ちをシンは堪えた。

 口を挟んだ所でジェニファーリンが止まるわけがなく、余計にややこしくなるだけと分かっていたからだ。


 ジェニファーリンの語りを摘まみ聞きして分かった事は、男は王都の商人でありスダバルドで一商ひとあきないを済ませた所であり、今はその帰り道であるようだ。

 商売があまり上手くいかなかったのか、それともタイミングが悪かったのか、王都までの帰りを空荷で帰る事になってしまったようだが。


 折良く、そして老婆にとって折悪く、街道に立ち往生している馬車がいる。

 何か商売の種にでもならないかと、話を聞けば近くの農村からスダバルドの街へと農作物を売りに行く所だったとか。


 だがしかし馬車は壊れ立ち往生、そして目敏い商人は空荷で帰るくらいならと老婆に話を持ちかける。

 その商品を買い取ろうか? と。


 問題は商人の男は少々しょうしょう老婆の足下を見過ぎたあきないをしようとした事であり。

 不運だったのはそこにパンタイルが現れた事だった。


 最初はきっと単なる好奇心だったのだろう。

 そして今は老婆への同情心なのか、商人としての矜持なのか、何かは知らないが不当な商売は許せないと煽動せんどうなのか説得なのか良く分からない演説をぶち上げているわけだ。


 何故か興奮したように頬を紅潮させた男が「嬢ちゃんの言うとおりだ!」等と言って、ジェニファーリンがはじき出した適正価格とやらで納得する姿を見て、シンは思わず嘆息した。

 ジェンと何か価格交渉をする事があったなら黙って値段を受け入れようと。


 下手に交渉でもしようものなら顔を真っ赤にしてとんでもない物を払うことになりそうだ。


 *


 ちょっとばかり、そうほんの少しだけ余計な事をしたと思いながらジェニファーリンはシンと一緒に荷物の積み替えを手伝った。

 空荷を埋めた商人の男に黒いカードを渡す。


「王都で売るならパンタイルの商人に売るといいよ。なにこのカードを見せれば悪いようにはならない」


 男はカードとジェニファーリンをしばらく見比べると首を傾げる。


「パンタイルとは少し縁があってね、悪い事にはならないから安心したまえ」


 シンがジェニファーリンを何か言いたげに見ていたが、彼女がそちらの方を見る事は無かった。

 見たところで皮肉気な笑みを返しただけだろうが。

 商人の馬車を見送った所で老婆が話しかけてきた。


「お嬢ちゃん、ありがとうねぇ」


 老婆が笑顔でジェニファーリンに礼を言う。

 胸の前で祈りの所作のような仕草で組まれた老婆の手は日に焼け節くれ立った手であり、働き者の手であった。

 また結界に守られた街には住めない貧しい農村に長年住む者の手であった。


 そしてジェニファーリンの好きな手だった。

 欲得をとうとぶジェニファーリン・パンタイルは、欲得によって歩む一歩こそをたっとく愛おしく思う。


 故にその道の大半を歩みきった老人達の手が好きだった。

 歩みの成果はかんがみない。


 その歩みの結果が平凡に尽きるとも、老いてその一歩の歩幅が縮もうとも。

 尊き一歩を重ねたその手が好きだった。


「なに、ただの気紛れさ。悪徳を詰み、我欲に素直な事にかけては人後に落ちぬ。私はそういう悪党であるからね」


 なのでジェニファーリンは照れた。

 照れて露悪的な言い回しが出る。


 残念ながら老婆には学は無く、ジェニファーリンの言い回しは良く理解できず、ただ単に逸らされる顔から照れているだけだと思われたが。

 その様子に更に何かを言おうとした所で、荷馬車の影から声をかけられた。


「ジェン、ちょっと手伝ってくれ」


 照れて妙な事を言う前に助けられた、そう思いながらジェンは問い返した。


「なんだいシン」


「車軸がちょっとズレてるだけだから、この場で直せる。依頼主に頼むのは悪いがちょっとこっちに来て手伝ってくれ」


 どうせ放って行く気は無いんだろ?

 余計な事を言うなと思いながらシンの方へと荒い歩みで向かう。


 背後から老婆のありがとねぇ、という声がこそばゆくて堪らない。

 我が友よ、シンよ、空気という物を読むべきだぞ、我が友よ。


「なんで不機嫌そうなんだ?」


 荷馬車の脇にしゃがんでいたシンが不思議そうな顔をして見上げてくる。


感受性デリカシーを踏み砕きながら生きてきたシンには分からないだろうね。安心したまえ皮肉ではなく只の事実の羅列だよ」


 それにシンが肩をすくめるだけで応える。

 顔に苦笑が浮かぶ。


「それにしても簡単に直せるのは幸運だったな。じゃなければ次ぎに近くを通った商人が荷馬車をとんでもない安値で奪われていただろうからな」


 おっと皮肉でこのパンタイルに勝負を挑むのかね我が友よ。

 ジェニファーリンは薄く笑う。


「失礼な、我が友よ侮ってくれるな。金など払うものか、笑顔で献上させてやるとも」


 シンを皮肉で斬るのに長々と話す必要すら感じない。自分の応えに黙するシンに手応えを感じる。

 ふと、やおら真剣な顔をしたシンが呟く。


「確かに」


「その返しは傷つくからやめたまえ、パンタイルは繊細な一族なんだ」


 シンが呆れた目で見つめてくる。


難儀なんぎな――」


「パンタイルは難儀な一族なんだよ、君ほどでは無いけどな」


 ジェニファーリンはシンに最後まで言わせることなく黙らせつつ、視線だけで何を手伝えば良い?と尋ねる。

 パンタイルは傷つきやすいのだ。

 その視線に溜息一つで全てを飲み込んだシンが指示を出す前に、その表情に先程とは違う真剣さがあらわれる。


 シンの手が腰に吊した剣の柄に伸びる。


「ジェン、身体強化だ」


 少し高くなった声でシンが言った。

 ジェニファーリンは、何を?と問う愚を犯さず身体強化の魔法を使う。


 強化された耳が音を拾う。

 これは、馬車の音、それも馬車が壊れるのも気にしない無茶な速度。


 街道をそんな速度で馬車を走らせるとなると状況は限られる。

 魔物から逃げるか、山賊から逃げるかだ。

 いや、これでは一つしかないではないか、ジェニファーリンは苦笑しながら手の平に浮かんだ汗をスカートで拭う。


 老婆が先程までとは明らかに違う雰囲気で馬車の影から出てきた二人に戸惑った顔を浮かべる。

 そんな老婆を背に庇うように立つ。


 街道を無茶な速度で走る荷馬車の姿はもう目に入っている。

 シンが呆れた様に言う。


「ジェンに絡まれ、その上今度は何に絡まれたんだ? 運の無い商人だな」


 先程別れたばかりの商人の男が御者席でこちらに手を振り叫んでいる。


「逃げろだそうだが?我が友よ」


 老婆にはキュルキュルという音としか聞こえないだろう、身体強化された声で言う。


「逃げたい?」


 返ってきたのは予想外に優しげな声だった。

 私がそうだと言ったらシンはそうするのだろうな、きっと老婆を抱えてすぐにそうするだろう。ジェニファーリンはその優しさに腹がたった。


 逃げて良いのだと、シンに選択肢を提示された事に腹がたった。

 なぜ自分はシンに問うたのか? 逃げろだそうだが?等と。

 そんな選択肢を提示させてしまった自分に腹がたった。どうせ私が手の平の汗を拭ったのを見て取っての事だろう。


「荷馬車と馬の値段を知ってるかい?」


 ジェニファーリンはチラリと背後の老婆を見て言った。


「すごく高い?」


 ジェニファーリンの声音に何かを感じたのか、シンの声に諧謔かいぎゃくが混じる。

 良いね、我が友よ、それは良い。


「我が家の昼食よりかは幾分だが高いね」


 成る程、シンが興味深げに頷く。


「じゃあ今日の昼飯は豪華にしてくれ依頼主殿」


うけたまわろう」


 *


 馬車で逃げてくる商人は叫びながら身振りで逃げろと必至に伝えようとしていた。

 それどころか逃げない自分達を見て速度を落とそうとしているではないか。

 根はお人好しか。


 ジェニファーリンは薄く微笑む。

 自身の命が係わる場面でお人好しになれるというのなら、まあ自分が商人に名刺を渡したのは間違いではなかったな。


 我が商会は馬鹿が好きなのだ。

 我が商会に良き知己が出来た、取引は黒字である。


 ジェニファーリンは覚悟を決めた顔で馬車の速度を落とす商人を見て、大きく息を吸い込む。


「商人殿! そのまま止まらず逃げよ! 私達ならば大丈夫だ!」


 さて、私のこの自信に満ちた声は通じるだろうか?

 ジェニファーリンの大声は、確かに商人の男に届き、そして幾ばくかの逡巡を引き出し、馬車を止める事無く走り抜けさせる事に成功した。


 代わりにかけられたのは老婆の震える声だった。


「お嬢ちゃん達は逃げなさい、こんな老いぼれは放ってお逃げなさい」


 ジェニファーリンとシンは老婆を振り返る。

 老婆の視線は、既に見えている馬車を追いかけてくる物から目を逸らせないでいる。


 儚い希望にすがる目だ。

 魔物は人間以外の生物を襲う事は無い、障害物として排除される事はあるが。ならば自分を囮にすれば、ほんの少し進路を変えてやれば荷馬車が壊される事はないはずだ。

 そして幸運が重なれば、こんな老婆など捨て置く気になるやもしれぬ。


 あり得ぬ程の細い希望に縋らずにいられない。

 老婆はそんな目をしていた。


 ジェニファーリンは小さく首を横に振る。

 馬と馬車が老婆個人の所有物なのか、それとも村の共有財産なのか、ジェニファーリンには分からなかったが。

 老婆がそんな目をしなければならない理由は理解出来る。


 平民に、ましてや街にも住めぬ農村の人間に退路は潤沢に用意されていない。一歩後退すればそこはすぐに崖だ。

 馬と馬車を失うのは驚くほどに死に近い出来事なのだ。


 ならばと老婆は前へと進むのだ。

 命を賭けて、欲得の一歩を歩むのだ。


 立ちすくむのではなく、前へと。

 なんと愛おしい事か。


 ジェニファーリンは老婆を安堵させようと口をけた所で、シンにその機会を奪われる。


「婆さん」


 嗚呼、ここにも居た。


「あれは俺のだ」


 愛おしい欲得の一歩を歩む者が。


「欲しいと言うなら、せめて声の震えを止めるんだな」


 そう言って、シン・ロングダガーは“蓋の外れた”笑みを浮かべた。


 *


 シン・ロングダガーという少年には悪癖があった。

 どうにも、どうにも魔物と戦う時に強い満足感を感じてしまうという悪癖があった。


 じっくりと見てしまうと、酷く後悔しそうな心のジクジクした部分が、魔物と戦う時にだけ綺麗さっぱりに乾くのだ。

 それも一人で戦う時に特に。


 自分は少々、心が変なのではないかと一時は悩んだものだが。

 冒険者の師匠であるバルバラに勇気を出して尋ねた所、若い頃は自分もそうだった、と教えられてからは気にしなくなった。

 たぶんきっと思春期的な何かなんだろう。

 シンは自分のそれを、そう解釈した。


 シンは、腰にぶら下げた数打ちの剣を鞘から抜きながらふと思う。

 師匠の他には誰にもこの事を相談した事はなかったが、今度ジェンにでも相談してみようか、と。

 剣を抜く俺を見て「はいはい、強欲強欲」と呆れるジェンなら他の答えを知っているかもしれない。


 *


 ジェニファーリンは鑑定スキルを使ってそれを見た。

 オーガっぽい、ファルタールではランク5から6ぐらいの冒険者なら安全に狩れると言われている魔物だ。

 勿論、前提条件として一対一で十全な体調、十全な装備でという注釈がつくが。


 他国の事情を知るジェニファーリンからすると、一対一で安全に狩れるという評価の仕方がまずもって頭がおかしいと思う。

 我が国やっぱりちょっとオカシイ。


 それはともかく、特徴は“オーガっぽい”という巫山戯ふざけた名前が示す通りに見た目はオーガに良く似ている。

 体躯は三メートルから四メートル程で、全身を分厚い筋肉で覆っており、人と似通った顔には鋭い牙が生えそろった口があり、頭には角が生えている。


 肌の色は灰色がかった薄い青色で、これも普通のオーガと同じだ。

 ではいったい何がオーガ“っぽい”のかというと腕が四本あるのだ。


 なぜこれで四腕大鬼フォーアームズオーガとかではなく、オーガっぽいなのか?

 たぶん命名者はファルタールの人間のような気がする。

 逃げた馬車ではなく、こちらに目標を変えたのであろうオーガっぽいを見ながらジェニファーリンは命名者のセンスに首を傾げそうになった。


 オーガっぽいがこちらに全速力で駆けてくる。

 こちらに逃げる意思が無いと見取ったか、オーガっぽいはその不遜さに咆哮を上げる。

 魔力の乗ったそれは一種の魔法であり、虚を突かれれば高ランクの冒険者の動きすら止める。


 あの商人の男は良く逃げられたな、ジェニファーリンは感心する。

 きっと運良く近づかれる前に気がつけたのだろう、運が良いのは良いことだ、特に商人にとっては。


 オーガっぽいの咆哮にシンが不愉快げに眉を顰め、ジェニファーリンはぐっと下腹に気合いを入れた。

 老婆が背後でへたり込むのが分かる。


 オーガっぽいがランク4程度の冒険者の速度で突っ込んでくる。

 オーガの類いは総じて身体能力が高く、最も動きが遅いと言われるゴールデンオーガでもランク3程度が使う身体強化と同等の動きをする。

 オーガっぽいは腕が四本という以外には、魔法が効きにくい等の能力は無い代わりに動きが速い。


 ジェニファーリンは今回の依頼で武器を持ってこない事に決めた事を少し後悔した。

 自分の全力と同等の速度で近寄ってくる魔物の姿は、ジェニファーリンにそうさせるだけの迫力があった。

 だがまあ、武器があったとて手を出せば君は不機嫌になるのだろうな。


 ジェニファーリンがそう思いながら、隣に立つシンに視線を向ける。

 自分が知る中で最も無自覚に傲慢で強欲な少年の姿が掻き消えた。

 半拍おいて重たい打撃音が鳴る。


 ジェニファーリンは唖然とした、呆れた。

 姿が掻き消えるような速度でもなく、オーガっぽいに臆すこと無く真正面から突っ込んだ事でもなく。

 シンが左腕でオーガっぽいの顔面を殴りつけた事に。


 友よ、我が友よ、君が右手に持つ剣は何なのか?

 魔物を素手で殴る行為の異常さや、オーガっぽいがその巨体をグラつかせる驚愕を無視して、ジェニファーリンはお前の右手に持ってるのは何なのかと、問わずにはいられなかった。


 っぽいとは言え、オーガの類いであるという矜持なのか。

 オーガっぽいが体躯をグラつかせながらも、その顔面を殴る為に浮かせたシンの身体を殴り返す。

 自分の隣から掻き消えた少年が、瞬き数回の時間で戻ってきた、ぶっ飛ばされて。


「君は正気か? それともその剣は飾りか?」


「正気だから殴ったんだよジェン」


 反撃を受ける事をは織り込み済みだったのか、オーガぽいに殴り飛ばされた上で綺麗に足から着地したシンは答えた。

 恐ろしい事にオーガっぽいが殴られた事でダメージを受けてふらついている。


「俺の剣の腕だとアレの首を落とすのは無理だ。剣が折れる」


 それは剣の腕の問題ではなく、剣の方が君の力について行けてないだけでは?

 ジェンはその言葉を飲み込んだ。


「どこぞの誰かに剣を贈るのを断られたのを思い出さずにはいられないね」


 代わりに皮肉が出た。

 馬鹿なんじゃないだろうか?我が友ちょっと馬鹿なんじゃないだろうかと、そう思うと口から出るのを止められなかった。


「大丈夫だ」


 ジェニファーリンは瞬時に理解した。

 皮肉が通じなかった事に。

 シンが剣を鞘に戻しながら言う。


「人間には腕が二本ある」


「つまり?」


 義務感だけで尋ねた。


「次から攻撃力は二倍だ二倍」


「すまない我が友よ、私は馬鹿語は分からないんだ」


 シンがオーガっぽいから視線を外さないまま首を傾げる。


「それは右腕は利き腕なのだから二倍以上だろうっていうのを暗喩あんゆ的に示唆しさするジェン流の皮肉か?」


 どこに暗喩があったのだろうか?

 ジェニファーリンは深刻な疑問を感じた。


「安心したまえ、ただ私の浅学さを急に吐露とろしたくなっただけさ」


 そうか、ジェンも大変だな。

 そう答えるシンに、ジェニファーリンは頭痛を感じる。お前、これが暗喩的な皮肉なんだぞと言いたくなる。いや通じるとは最初から思っていなかったが。

 もはや体勢を立て直したオーガっぽいがこちらに突っ込んでくる姿にも驚けなかった。


 *


 自分の左腕を盾にして空いた腹に右の拳を捻り込むように突き刺す。

 オーガっぽいは悶絶し、シン・ロングダガーの左腕は折れた。

 シンは折れた左腕を回復魔法で回復させると、通じないのを理解しつつ叫ぶ。


「おう!俺の腕はまだ二本あるぞこの野郎!」


 それは骨が折れた痛みに膝を屈しない為であり、痛みに引っ張られる思考を無理矢理目の前の闘争に引き戻す為の叫びだった。

 叫びながら、嗚呼、叫びながら。


 シンは乾くのを感じていた。

 ひたすらに無自覚に、それでもなお自分をさいなむ湿りが、乾くのだ、どうしようもなく乾くのだ。


 痛みによってではない。

 これ以上の痛みなど、師匠との修行で何度も感じている。

 何一つ誇張の無い事実として何度も死ぬ寸前までいった。


 違うのだ、必要なのは闘争なのだ、魔物と戦うその時だけは心が渇くのだ。

 じっくりと見れば後悔する事になる心のジクジク湿った部分、そこから目を背け続けるシンにはただ闘争それ自体が楽しいとしか感じなかった。

 いや、楽しいと感じている、その事にすらシン・ロングダガーは目を背ける。だが確かに今、シンの心は渇いていた。


 拳を固く握ったシンは自分の口角が吊り上がっている事には気がつかなかった。

 シンは吠えた。


 *


「あーそれはどういう顔なんだ?ジェン」


 シン・ロングダガーは分厚い豚肉とホロホロになるまで煮込まれた人参をしっかりと飲み込んでからそう尋ねた。

 場所はスダバルドの宿屋に併設された食堂だった。

 残念ながら馬車の修理に思ったより時間が掛かった為に約束の豪華な昼食は豪華な夕食となってしまった。

 豪華と言っても宿併設の食堂で一番高い物であり、ジェニファーリンが言うような豪華からはほど遠い物であった。

 シンにとってはデカい肉がある、それだけで十分過ぎる程に豪華だったが。


 そういうワケでシンは“豪華な”夕食を十分に楽しんでいたのだが、どうも目の前の友人、ジェニファーリン・パンタイルはそうではないようだった。


「我が友よ、どんな顔に見える?」


 感受性デリカシーの敵だの、踏み潰して生きてきた等と言われるシンでも分かった。

 ジェニファーリンが溜息を押し殺した事に。


「スープが塩辛い」


 だからと言って正解は出ない。


「私が押し殺した溜息を返してくれ」


 ジェニファーリンはそう言うとパンを固まりのまま噛み千切り、やってらんねーよとばかりに咀嚼する。

 貴族子女にあるまじきマナーであったが気にしなかった。


「感謝されると思ったお婆ちゃんにシコタマ恐れられた哀れなパンタイルの気持ちなど君には分からないだろうな」


 オーガっぽいを魔石屑へと変えた後に、迎えられたのは老婆の恐れおののく視線だった。

 何ならオーガっぽいを見た時よりも恐れおののいていたと思う。

 少なくとも老婆はオーガっぽいを見てなお、か細くはあるが、有るか無いかの奇跡に縋るだけの意思があった。


 こちらを見る老婆の目は絶望を受け入れた目だった。

 酷くないか? 助けたんだよ?

 パンタイルは傷つきやすいのだ。


 そうは思いつつも、いやもう仕方が無いとはジェニファーリンも思うのだ。

 目の前でオーガっぽいと素手で殴り合う馬鹿を見れば誰でもビビる。

 あまつさえ、その馬鹿は殴り勝ったのだ。

 馬鹿なのか?人類だぞ?道具を使え道具を。猿でも道具を使うんだぞ、お前は猿以下か。


「感謝してただろ? 敬語になってたし」


 ビビってたんだよ!

 シンの言葉にジェニファーリンは叫びそうになるのをグッと堪えた。


「おかげでせっかくオーガっぽいの魔石を譲ったというのに、まるで慰謝料を渡した時の気持ちにさせられたよ」


 魔石を渡したらお婆ちゃんに凄く感謝されるかなぁ、等と思っていた自分が悲しい。

 ジェニファーリンはやけ酒代わりにスープをガツガツと口に突っ込みながら思い出す。


 魔石を譲ると言った時に老婆から向けられた、これを受け取ったら何を要求されるか分からない、という恐怖に滲んだ目を。

 酷くないか? 確かにお礼の言葉が欲しいという下心ありの行動だったが、あの目は無いだろう、あの目は。


 味の染みた野菜を乱暴に噛み砕きながら思う。

 出汁フォンは良いが、確かに塩は効きすぎてる。


「別に感謝の言葉が欲しくてやったわけじゃないだろうに」


 シンの言葉にジェニファーリンが「君がそれを言うのか」と言葉を飲み込めたのは単純にまだ口に野菜が残っていたからだ。

 自分の行動その結果の一切を他者と共有する事を良しとせず、そして無自覚であろう自身の能力の高さ故の傲慢さにより、感謝の言葉にこそ最上の価値を見いだす君がそれを言うのかと。


 怒りを飛び越して呆れ、更には突き抜けて怒った。

 野菜を飲み込んだら消えたが。

 ふむ、やはり出汁フォンは良い。


「私は感謝それが欲しかったんだよシン」


 代わりに出たのは本音だった。

 きっと美味しい出汁フォンのせいで、何者でもない二人でいられる雑な雰囲気の食堂のせいだろう。


「私は世のお爺ちゃんお婆ちゃんに感謝されると大変嬉しくなるというさがの持ち主だからな」


 シンが変な顔をする。


「難儀ないちぞ――」


 言葉を遮る。


「勘違いしてくれるな我が友よ。私のさがだ、これ以上パンタイルに妙な枕詞は要らないぞ」


 ジェニファーリンはシンの誤解を解く。

 その言葉にシンが浮かべたのは苦笑だろうか?

 ジェニファーリンには分からなかった。今更ながら下らない本音を晒した事が恥ずかしくて目を逸らしたからだ。


「難儀なジェニファーリンだな」


 君が言うな。

 ジェニファーリンはそう言って目を背けたままスープを口に入れた。からかうようなシンの声が腹立たしい。


 感謝の言葉は貰えなかったし、シンにはからかわれるし、今日は大赤字だ。

 いつか何かで補填しよう。

 少なくともシンの剣をまともな物にしよう、どうせ形が似てたら気付かないだろうからコッソリ入れ替えよう。

 

 たぶんそれで黒字だ。

 ジェニファーリン・パンタイルは赤字の回収方法を考えながらスープを飲む。

 

 スープはやはり少し塩辛かった。


***あとがき***

将来、ヒロインに人間なんだから道具を使おうよ、って呆れる主人公がいるらしいっすよ。(57話)

なお本人は、使ったら折れると分かっていて剣を使うわけにはいかなかったのだから、これはセーフと言っているもよう。


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