第56話 追放侯爵令嬢様、怒りの淑女キック1
*
魔方陣が割れる。
これは単純な比喩表現だ。
込める魔力に耐えられるだけの魔方陣を構築出来なかった、もしくは魔方陣を構築する身体側が魔方陣に比べて弱かった時。
他にも上手く魔力を魔方陣に回せなかった時や、単純に魔力自体が足りなかった時、理由は様々だが。
魔法が不発に終わったり不本意に魔法が途切れたそういう時に、魔方陣が割れた、と表現する事がある。
俺はそれを今の今まで例え話だと思っていた。
本当に魔方陣って割れるんだな。
自分の体内で構築した魔方陣が砕けていくのが俺には分かった。
もしかしたら師匠なんかはこういうのが分かる世界の住人なんだろうな、という考えがふと思い浮かび。
それと同時に、あれ? この魔方陣をちょっと繋げたらあともう一振りぐらいは身体強化を維持できるんじゃない? という事に気が付いた。
とたん胸の奥に熱が篭もるのを感じる。
あと一太刀振れる。
どうせ死ぬのだ、死ぬ気で振れば届くぞ、と心の中で誰かが囁く。
そうだ、どうせ死ぬのだと、心の中で誰かが同意する。
ああ、そうだなと俺はうなずく。
俺は死ぬ。
だがここで差し違えてでもコイツを倒せば。
そうすればコイツが、オーガナイトがエリカの前に立つ事は無い!
自分の顔が
……ん?
エリカ?
そうだ、エリカだ。エリカだよ。
一年一緒にいさせてくれと頼んだあげくにコレか俺。
彼女はそう言った男がさっさと死ぬ事に何か思ってくれるだろうか?
悲しんでくれるだろうか?
ああそれにしても、まだほぼ丸々一年近くあったのに、彼女の横に立っていられたのに。
え? 何? 俺死ぬの?
――いやいやいや、ないないない。
そんな勿体ない事できるわけないでしょ。
「あと一年もあるんだぞ!」
完全に差し違える気満々だった身体がビックリするのを感じた。
いや、無いから。エリカとあと一年近く一緒にいられるのに差し違えるとか無いから。
俺の身体なのにホントに馬鹿だなぁ。
正真正銘、最後の力を振り絞って致死の拳の前に剣を滑り込ませる。
剣の腹がオーガナイトの拳を受けるのと同時に身体強化が切れた。
身体が真横に吹っ飛ぶ。
地面に叩きつけられて死ななかったのは、服の方の身体強化がまだ残っていたからだが。
それも地面に叩きつけられて消えた。
背中に受けた衝撃で呼吸困難になりながらも、もう一度身体強化の魔法を発動させようとする。回復は後回しだ折れていようが破けていようが避けないと。
だがそれが間に合わないのも分かっていた。
あの魔物の王がこんな隙を見逃すハズがない。
全身を襲う痛みに顔をしかめながらも顔を上げた俺の視界に入ってきたのは。
自分へと向けられた可視化された殺意の塊だ。
あー死ぬなー俺死ぬなー。
頑張ってはみたものの現実は非常だし、理不尽を撥ね除けるだけの実力がなければ蹂躙される。
諦めかける心と身体を奥歯で噛み砕くも、身体は絶望的にノロノロとしか動かない。
足を踏み込んだオーガナイトの姿が見えた時、学園の教室を幻視した。
幾つもの机を間に挟んで、盗み見るようにして視界に焼き付けたのは彼女の横顔だ。
最後に思い出すのがこの期に及んでエリカの横顔とは、つくづく自分に呆れる。
死の間際でも真正面から彼女の顔を見るのが恥ずかしいとは。
つくづく情けないなー。
身体強化の魔法はいまだに構築できず、つまりはだから俺の目にはオーガナイトの姿は消えたようにしか見えず。
未強化の五感は人の身から外れた領域での出来事など何一つ捉える事は出来ないはずなのに。
それでも俺はその声を確かに聞いたんだ。
「間に合いましてよっ」
目の前で起きた轟音と衝撃波に思わず目を瞑る。
瞼を開ければ、そこは天国でした。
なんて事が無いように祈って目を開けた俺は、現実かどうかを疑うはめになった。
どれ程の技能、どれ程の才能があれば人間はこんな事が出来るのだろうか?
まるで何でも無い事かのように、手から思わず離してしまった倒れるモップの柄を足で止めるかのように。
エリカは蹴り上げた右脚でオーガナイトの拳を止めていた。
美しく伸びた脚に、大地へと真っ直ぐと根ざしたかのような軸足。
まるで古代の彫像のような美しさだったが、その軸足が根ざす大地が彼女が受け止めた衝撃を如実に語っていた。
今もピシピシと地面が鳴く音が聞こえる。
オーガナイトがムキになったように牙を剥き出して唸り、動かない拳を振り抜こうとする。
非現実的な光景に、思わず唯一その現実を信じられる名前を呟く。
「えびが」
だが、地面に叩きつけられた時に肺が潰れていたのか、喉から出たのは血と彼女の名前のなりそこないだった。
いやしかし肺が潰れていたのか、どうりで息苦しいわけだ。
そんな俺の声に彼女はゆっくりと視線を俺に向けてきた。
恐ろしいことにオーガナイトの拳を止め続ける脚は微動だにしない。
とりあえず呼吸を確保しなければと回復魔法を肺に集中させると、回復した肺がさっそく仕事した。
俺に向けられたエリカの視線に思わず息を飲む。
正確には出そうになった悲鳴を飲み込んだ。
えー、なんでこんなにエリカ怒ってるの?
こんなに怒っているエリカとか、そう見た記憶なんて無いぞ。
こちとらエリカを見ていた時間だけは誰にも負けない自信があるのだ、自分でもちょっと気持ち悪い事言ってるなとは自覚してるが、現実だ諦めろ俺。
そんな俺が、数える程しか見た事の無いエリカの怒りの表情を向けられて冷静でいられるわけがなく。
焦りまくった俺はまだバッキバキに折れてる肋骨やら脚の骨やらを無視して動こうとして、無様としか言えないピクピクとした痙攣みたいな動きをする。
エリカが怒っているのは俺が無様を晒しているからじゃないかという疑問がふと脳裏に浮かび、とりあえず立ち上がらなければと回復魔法が間に合わず上手く動かない身体に焦る。
駄目だ立ち上がれない、こうなったら身体強化を使って跳ね起きれば良いと、人生最速レベルで身体強化を発動させる、さっきやれよ俺。
そんな俺の姿を見てエリカの眉が急角度でつり上がる。
何故に更に怒る!?
いや俺が無様にピクピクプルプルしてるからか、エリカはピクピクプルプルしてる男は嫌いか、分かった俺も今からそんな男は嫌いだ。
「……少し」
凍てつくような冷たい声音に全身が凍り付く。
「そのまま待っていてください」
エリカが俺から視線を外しオーガナイトへと顔を向ける。
「すぐに済ませますので」
後頭部しか見えなくなったが沸き立つような黄金の魔力に。
「はい」
俺はそう答えるしかなかった。
いや、だって本当に怖いのよ?
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