第55話 追放侯爵令嬢様のいない激闘2


 左腕を盾にして、相手の力を利用して距離を取る。

 成る程、言葉にすればなんて簡単そうなのだろうかと思う。


 左腕を犠牲にして得た距離と刹那で、俺は無事な右手で剣を鞘から引き抜く。

 だが出来たのはそこまでだった。


 激痛で膝をつきそうになる。

 目がかすむ、叫ばないように噛みしめた奥歯がきしむし、思考が四方八方に散らかりまくる。


 オーガナイトの強さに対する怒りや恐れ、自分の不甲斐なさへの落胆にまだ生きているという自負。

 腕を潰された怒り、腕を犠牲にしなければならなかった自分への怒り。


 ああ、畜生。

 また服がボロボロになった。


 ふと思い浮かんだ場違いな馬鹿な考えがふと俺を冷静にさせた。

 こんな状況でも出てくる自分の貧乏性は、どれほど自分に染みついているのかと苦笑を浮かべそうになる。


 実際には痛みに耐えて食いしばったままだったが。

 おかげで不思議な事にも気が付く。

 俺の左腕がまだ繋がっているという事に。


 てっきり粉々に吹き飛んでいるものとばかり思っていた俺の左腕は、確かに袖の下に潰れひしゃげていたが存在していた。

 そう、“袖の下”にだ。


 身体強化された腕が粉々になるのを覚悟したのだ、本来なら袖など跡形もなく吹き飛んでいて当然なのだ。

 何が起きたのかと考える前に直感で答えが分かった。


「貧乏性ここに極まれりだな」


 身体強化時の特徴的な、普通の耳ではキュルキュルとした音としか聞こえない声でそう呟く。

 剣だけではなく、ついには服にまで身体強化を使えるようになるとは、また師匠に呆れられるな。


 左腕を犠牲にして、俺がそう自分の貧乏性についに苦笑するまでに要した時間は一呼吸。

 次の瞬間にはオーガナイトの魔力が目の前に迫っていた。


 *


 身体を動かす事がそのまま魔法と同義であるオーガナイトの動きは、魔力が見える俺にとっては未来予知に近いレベルで予測できた。

 だがそれに対処するのは至難だ。


 自分でも理解不能な何かの叫びを上げながら、収束された確実な死を実感させる魔力の先へと剣を滑り込ませる。

 剣先が魔力に振れた瞬間に今まで感じた事の無い奇妙な重さを感じる。


 まるで重たい水の中で剣を振っているかのような抵抗。

 ただでさへ相手の速さに対してこちらの速さは足りてないのだ。


 突然の不調に勘弁してくれと思いながらも必死に重たい抵抗の中で剣を進ませる。

 呼気に漏れる魔力すら勿体ないと全力で魔力を体内で回転させる。


 死その物にしか見えないオーガナイトの拳が残像を帯びて迫るその瞬間。

 何かがへし曲がる感覚が腕を伝わり、剣が拳の先へと滑り込み、異様な程に軽い感触を残して。


 俺はオーガナイトの拳を弾いた。

 一瞬の忘我。


 拳を真上に弾き飛ばされ、大きく大勢を崩すオーガナイトが信じられないと感じているのが分かった。

 明らかに自分より弱い生物である俺に、必殺の拳をかわされるでもなく軽く弾かれるという異常事態に。


 騎士の兜を被ったかのように見えるオーガの頭部が、弾かれた拳を思わず追うように上を向く。

 信じられなかったのは俺も同じだった、理解も出来なかったし現実であるかすらも分からなかった。


 だが俺の身体は動いてくれた。

 何千何万と繰り返した、魔物にはない修練という過程を経た身体は全ての不可解を無視した。


 身体強化を受けた剣身に浮かぶ木目のような模様が、これ以上は無理と言いたげにその身から魔力を吹き上げる。

 頭よりも先に身体が剣に最大の切れ味を求め、剣がそれに応える。


 千載一遇、この機会を逃して他に全力を出す時などない。

 俺がそう思ったのは剣を振り切った後での事だった。


 オーガナイトの左腕が飛んだ。


 *


 オーガの咆哮とも絶叫とも分からない声を聞いて俺が感じたのは痛烈な悔恨だった。

 届かなかった、俺の剣は届かなかった。


 オーガナイトの心の臓を、魔石が埋まる胸へと振り下ろすはずだった剣は、奴の左腕を肩から切り飛ばしただけだった。

 速度が足りなかったのだ。


 何千何万と繰り返した修練が、単純な魔物の身体能力に届かなかったのだ。

 魔物達の王が、なりふり構わず剣を避けるさまに満たされようとする自尊心は自殺への手形に他ならない。


 吠えたのは悔しかったからだ。

 吠えたのは怖かったからだ。

 吠えたのはそれでも諦めたくなかったからだ。


 俺は体勢が万全では無いオーガナイトへ追撃を仕掛けようと一歩踏み出して慌ててその脚を止める。

 濃密な魔力の線。


 咄嗟にいまだ回復しきっていない左手でも剣を握る。

 走る激痛に目の奥が痛む。


 必死に一番濃い魔力の線に剣を滑り込ませる。

 相変わらず剣先が妙な抵抗を感じるが、不思議な事に先程よりもずっと軽かった。


 その不思議な感触を疑問に思う余裕は一瞬で無くなり、後に残ったのは暴雨の如く降りそそぐオーガナイトの拳を捌く剣の音だけだった。

 一瞬の思考すら許されない。


 一呼吸の間捌ききる。脆弱な俺を倒す為に魔物の王が油断を捨てたと奇妙な喜びを感じる。

 また一呼吸の間捌ききる。魔物の王に脆弱な生物だと油断されていた事に傲慢な怒りを感じる。


 三呼吸目、思考が感覚に追いつき始める。剣先から伝わるあの妙な抵抗、そして何かを曲げているという感覚が分かり始める。

 四呼吸目、そうか俺は魔力を、魔法を曲げているのだと理解する。


 五呼吸目、ならばと魔法を斬ってみる、ならばと魔法を大きく曲げようとしてみる。

 六呼吸目、魔物の王が苛つき怒るのが分かり楽しくなってくる、それでも反撃に移れるような隙は見つけられない。


 七呼吸目、自身の限界を超えた強度で使用していた身体強化の魔方陣があと二呼吸ほどで崩壊するのを自覚する。

 俺の身体がもっと頑強であれば魔方陣の強度ももっと高く出来たのにと後悔に似た気持ちを抱く、努力や修練を怠ったつもりは無いが後悔は立つ。


 八呼吸目、このに及んで目と身体がオーガナイトの速度に追いついてくる。

 背中を這い上がってくる満足感という死に神を奥歯でかみ砕く。


 九呼吸目、ふと自分の身体よりも丈夫な身体がある事に気が付く。

 どうせ死ぬのだからと自棄を起こすのではなく、いまだ勝つ気でいた自分に呆れる、だがもう時間が無い。


 馬鹿な思いつきだと呆れる自分と笑う自分。

 いやはや随分と楽しいじゃないか。


 最後の最後、ちょっとした隙を作ろうと魔力を込めた瞬間、あっけなく体内の魔方陣が壊れた。

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